コルバーン・オーケストラ#1

2007-08学年度、そしてコンサートシーズンが始まった。
コルバーン音楽学校にとっては創立五年目。
去年中続いていた工事がこの夏完成し、敷地内に新しく寮、リサイタル・ホール、キャフェテリア、更なる練習室と教室、レッスン室などが増設された。 このおかげで去年は62人だった全校生徒数が今年から100人、予定されていた定員に達した。
去年始まった木管楽器専攻に、今年から金管とハープ科が新しく加わり、これで学校にオケの楽器が全部そろった事になる。 学校にとっての新たな出発点だ。 カリキュラムにも様々な改善が施された。
例えば、去年まではオーケストラのリハーサルはコンサートの2週間半ほど前から、月・水・金と行われていた。 生徒達は午前中に楽典、音楽史、人類文学、ソルフェージュなどのクラスを大体済ませ、午後オケのリハーサル、そしてその他の時間に練習、宿題そして個人レッスン、室内楽のリハーサルとコーチングをすることになる。
これは私の知る限り、アメリカの音楽学校の多数が行っている時間割だ。 ところが、このやり方だと忙しすぎて練習や睡眠時間が削られる、という苦情が生徒から寄せられ、学校側が改善案として試みているのが今年のやり方だ。
オケのコンサート前一週間、午前中の授業は休みになる。 そしてこの午前中、9時半から12時までが毎日オーケストラのリハーサルに費やされる。 午後の授業は通常通り行われるが、これ等は聴音や副科ピアノなど、実践授業が多いため、宿題などの負担が比較的少ない。 午前中の授業は授業時間を去年より毎回30分長くする事で穴埋めされている。
そうして新しいスケジュールでリハーサルの経過を経たプログラムが、昨夜演奏会で発表された。 私は指揮も勉強しているので、毎朝2時間半このリハーサルに出席した。
曲目は以下だ。
バーバー 「スクール・フォー・スキャンダル」序奏曲
ショスタコビッチ 交響曲九番
休憩
ブラームス バイオリン・コンチェルト
それぞれの楽器が上手く紹介できる、よい曲組みだったと思う。 木管や金管のソロも存分にあり、みんな張り切って毎日どんどん上手くなっていった。
そんな中、本番を二日後に控えた木曜日、日本から観光で来た某音楽大学の教授が数名学校の見学にいらした。 学校をご案内し、オケのリハーサルも見ていただいたのだが、その後の辛口な評価にびっくりしてしまった。 
私は欲目もあるし、こんなに難しいプログラムを一週間のリハーサルでこのレベルまで持っていくことの出来る、私の友達が誇らしくてならなかったのだが、弦がそろわない、金管が走る、一体学校は何を教えているんだと本当に歯に絹を着せぬ物言いなのである。
 
美味しいステーキをご馳走になりながらのことだったのだが私は思わず赤面し、自分の愛校精神にびっくりしながら一週間弱でここまで仕上げていること、ソリストを目指している・あるいはすでにソリストとしてのキャリアを持っている弦楽器奏者が多いため、アンサンブル奏法と言うのは二の次になっているかもしれないことなどをあげて弁護を試みたのだが、そのあと色々日米の教育観念の違いについて考えるきっかけになった。
例えば、私は13でアメリカに来た訳で、それまでの音楽教育は日本の私の恩師に負う。 しっかりと基礎を築き上げてくださった事でどれだけ今の私の演奏が支えられているのかは計り知れないし、今でも彼女の耳のよさと批評の的確さには常に脱帽する。 そして、これは私の恩師の判断だったというよりは日本の教授の一般的な傾向ではないかと思うのだが、私は未熟を理由にアメリカに行くまではロマン派をほとんど勉強させてもらえなかった。
拝み倒して「革命」のエチュードを勉強し(映画で見て、憧れたから)、その後唯一ショパンのスケルツォを弾かせてもらったりもしたが、父の転勤で急にジュリアードのプレカレッジの受験をすることになったとき課題として、バッハのプレリュードとフーガや古典のソナタと共に、ロマン派と現代曲が必要で、慌てふためいたのを覚えている。
そして準備したラヴェルの「水の戯れ」は当時の私にとっては超・現代曲だった。 しかしその後、ジュリアードでは一年目だけで、ショパンのノクターン、ブラームスのラプソディーやインターメッツォ、ドビュッシーの「ピアノの為に」等を勉強し、2年目にはラフマニノフの協奏曲の二番を弾いた。
私が急に上手くなったわけではない。
学校教育でもそうではないかと思うのだが、日本では子供の能力で完璧にこなせる課題を与え、完璧に仕上がるまで繰り返すことを求める。 一方アメリカでは子供の能力より少し上の課題を与え、常に子供に背伸びする事を要求して、育てようとする。 芸大のオケは一年に4回定期コンサートをするそうである。 コルバーンは今学期だけで3回が予定され、さらに地域の小学校をいくつも回る訪問演奏会用のプログラムが別にある。
日本の音楽学生は夏の音楽祭などで外国の同年代の演奏家を見て、本番の強さにびっくりする。 私は日本人の上がり症にびっくりする。 もちろん、国民性などもあるのだろうが、でも完璧さに対するプレッシャーがあるかないかの違いもあるのではないか? 
さらに完璧を重視する時、人は一般的に細部を固めて進んでいき、全体が仕上がるのは結果に過ぎない。 しかし、大きな課題が締め切り付で与えられた時、全体像をまず把握してから、細部に優先順位をつけて大事な物から固めていく。 効率を考えたら、そうならざるを得ない。 後者をとった場合、確かにおろそかになるディーテイルが出てくるかもしれない。 しかし、音楽学校の定期演奏会に置いて、一番の重要課題は音楽家の育成であって一つ一つのコンサートの完璧さではないのではないか。 さらに若い音楽家にとって、演奏経験とレパートリーを増やすのは一つのコンサートを完璧にこなす事に取って代わるほど重要である。
そして私に言わせてもらえば、昨夜のコンサートは完璧に近かったのではないかと思う。
私の欲目が私の判断を狂わせているのだろうか?
いや、そうではない。
みんな超上手くて、そして本番にめちゃくちゃ強い、ツワモノなのだ。
何にせよ、観客総立ちの拍手喝さいだった。

Leave a Comment

Your email address will not be published. Required fields are marked *