起業家としての音楽家。
William Weberと言う学者が、私のリサーチに浮上してきた。 こういう人である。 http://www.h-up.com/bd/isbn978-4-588-41028-4.html 「音楽学者」ではなく、「歴史家」。 でも、音楽社会史を専門としている。 私がこの人の名前を最初に見つけたのは、 New Yorker Magazineの記事でこういう記述を発見したとき。 「ライプチヒの演奏曲目ですでに死去した作曲家の曲の演奏の統計。 1782 11パーセント、 1830 約50パーセント(ウィーンでは74パーセント) 1860年代から70年代 69パーセントから94パーセント」 この統計にWilliam Weberの名前がついていて、(面白い!)と思って調べたのだ。 今読んでいるのは、『起業家としての音楽家、1700-1914』と言う本。 この本は彼の著書では無く、彼が監修した、自分の記事も含む色々な学者の記事の総集なのだが、 「音楽産業に於ける女性起業家」と言うセクションまである。 クラシックで難しいのは、イメージ的に 「大衆受けしない、崇高な精神的極み」と言うのが売り、と言うこと。 大衆受けしないことを宣伝文句にしているのに、売る対象は大衆と言うジレンマ。 その中でどのように成功者が成功するか。 本人の努力だけではなく、社会背景などとの偶然の一致と言う場合もある。 例えば工業革命で、機械に人間性を奪われてしまうような危機感に見舞われている社会に対し、 機械(ピアノ)を自在に操って自己表現する戦士、と言う構図に上手く乗ったリスト。 貴族社会の崩壊後、新しく出現した中産階級に於いて、 いつ「ブルジョア」階級から追放、あるいは落ちぶれるか冷や冷やしている大衆に どこで拍手をするのか、どういう言動が演奏会の礼儀にかなっているのか、 演奏会の文化に精通することで、ブルジョア階級のメンバーシップが確認できたのである。 そして、ベートーヴェン。 発注されて曲を書くのでは無い。 貴族や権力者を喜ばせるためでは無い。 全く媚びない、自己表現。 しかし、その長―い交響曲を聴くことで、 聴衆はベートーヴェンが象徴する「自由な自己表現」の概念に賛同しながら、 自分は窮屈にそれを受け入れる側に回る。 またもや、ジレンマ。 面白い! 面白い! ワクワク。楽しいです。