ツェルニー再考(最高!?)

ピアニストのほぼ全員が「ツェルニー」を退屈で繰り返しが多く、
音楽的とはお世辞にも言えない練習曲の作曲家としてのみ知っている。
その結果、ツェルニーと言うのは音楽史に於ける「凡才」の代名詞の様に思われている。
この本では、ツェルニーの音楽史への多大の貢献の再考を試みている。
David Gramit編集。Beyond the Art of Finger Dexterity: Reassessing Carl Czerny Rochester, NY. University of Rochester Press, 2008

今までの音楽史と言う物は「偉大」とされる作曲や作曲家のみから
直線状の進歩を遂げる時代様式の変化を検証する、
と言う形が主だった。
しかし、音楽と言う物を作品ではなく、実際に行うものとして考えた場合、
ツェルニーの音楽史への貢献が多大だ、と言う事が分かる。
1.教師として
―リストの教師としてピアノ技巧だけでなく、作曲様式、即興など。(ここで問題になってくるのは才能は教えられるか、と言う質問である。ツェルニーはリストのほぼ唯一無二のプロ教師だが、その期間は長くない(1819年にオーディションの様な出会いがあった後、1822年から10か月ほどほぼ毎日、無償で教えた)。第4章James Deaville著
*ツェルニーは他にもこの時代の大ピアニストを多く教えた:(Grove Music Online:Döhler, Kullak, Alfred Jaëll, Thalberg, Heller, Ninette von Bellevile-Oury and Blahetka)
―当時の多くの女性アマチュア・ピアニストの教師として、また教則本の著者として
ツェルニーは1805年に14歳でピアノ教師として働き始め、1815年ごろからは1836年まで朝の8時から夜の8時まで(P.26 )日曜日以外は毎日12人の生徒を教える生活を40代まで続けた。ツェルニーが1837年に書いた「Letters to a Young Lady on the Art of Playing the Pianoforte」を読解し、当時の女性観・ツェルニー自身の女性観・アマチュア観・ピアノ技術観・家庭内での音楽観を検証しているのが、、第五章Deanna C. Davis著
2.ベートーヴェンの伝道師として
ツェルニーは子供の頃からベートーヴェンの音楽に熱情的に憧れ、独学していた。10歳の時(1801年)ベートーヴェンに会う事が叶った時には『悲愴』ソナタと『Adelaide』をベートーヴェンの前で演奏し、ベートーヴェン自身にレッスンを受け始める。1816年からはベートーヴェンの甥、カールのレッスンはツェルニーに任される。(1842年ツェルニー自身の追憶より)ツェルニーの作品500(1842)「The Art of Performing the Older and Newer Piano Compositions」の2章と3章目は「On the Correct Performance of all of Beethoven’ss Works for the Pianoforte School(ベートーヴェンの全ピアノ作品を正しく演奏するために」である。(第6章、Ingrid Fuchs著)ツェルニーのメトロノーム・マーキングや時にはベートーヴェンの記述と矛盾する解釈が、ツェルニーが記憶するベートーヴェンの演奏に基づいているのか、ベートーヴェンからのレッスンか、はたまたツェルニー自身の(間違っているかも知れない)解釈なのか(第7章、James Parakilas著)、それともツェルニーはベートーヴェンの『魂』を理解し、歴史と共に代わる美的感覚の中で、大事なのはベートーヴェンがした通りの演奏をすることでは無く、ベートーヴェンの『魂』を継承することなのか(第8章、George Barth著)。いずれにしろ、ツェルニーがベートーヴェンの信望者で、ベートーヴェンを後世に「神聖」として正しく継承するために多大な努力をしたことに於いては、皆同意している。
3.校正者として
J.S. Bach(平均律集)、スカルラッティ、クレメンティ(クレメンティがウィーンに滞在中にそのメソッドを教わった)、ショパン(練習曲)など楽譜を出版のために校正。
4.「クラシック」と言うアイディアの設立に一役買った人物として
(1847年出版のTheoretico-Practical Piano School の4冊目に、過去80年に於いて重要なピアノ曲の作曲をした作曲家たちのリストを乗せている。(Mozart, Clementi, Chopin, Schubert, Schumann, Liszt, Mendelssohnなど)
5.「楽譜が絶対」と言う考え方を広めた人物として
ベートーヴェンの作品に於いては楽譜を忠実に再現する、と言う事を繰り返し言及。
6.作曲家として
シューベルトの死後(1828)、ブラームスが最初に来るまで(1862)、ウィーンの音楽様式は前進できなかった。それには歴史的背景とBidermeierやKlassizismusと言う概念がある。当時の大臣、Prince Clemens von Metternichはウィーン会議(1814)で確立された平和(その前には長いナポレオン関係の戦争が続いた)は変化を全て廃止することでしか守れないと考え、1848年の革命までこの政策を続けた。文学では厳しい検閲が課された。楽曲では実際には検閲は無かったものの(歌詞の検閲はあった)、ベートーヴェンとシューベルトには例外的に許されていた作曲様式の模索がツェルニー(1791-1857)を始めとする他の作曲家には許されなかった。ツェルニーは受けることが分かっている古い様式の作曲だけを出版し、残りは全て演奏も出版も許さずしまっておいた。近年、彼のピアノ作品や交響曲、四重奏などがリヴァイヴァルされている。(第一章、Otto Biba著と第9章以降)
この本とツェルニー自身が私の博士論文(ピアノ演奏史に於ける暗譜の起源)とどのように関係があるか。
1.まず、ツェルニーには暗譜の記述が多い。一般的な見解が「暗譜」を演奏様式として始めたのがクララシューマンやリストだとされている中、その一世代前のツェルニー(そしてその父親)の暗譜の記述は貴重だ。
―自叙伝「Musical Recollections from my Childhood and Youth」の中で父親が「クレメンティのソナタの多くを良く知っており、そのほとんどを暗譜で演奏できた」と言及(P.46)
―1802年ごろからベートーヴェンのパトロンであったMoritz von Lichnowskyの家で毎朝ベートーヴェンのピアノ曲を暗譜で演奏して聞かせていた。(自叙伝、「Reminiscences」より、P.83)
―1805年12月7日にベートーヴェンがツェルニーのために書いた推薦状には「ピアノ演奏に於ける年齢をはるかに超えた目覚ましい進歩、と称賛に価する記憶力を持って、彼を全ての助力にふさわしいとする」と書いてある。(ベートーヴェンは最初、ツェルニーが多くを暗譜で弾くことを疑問視していた。楽譜を素早く読解すること、初見の能力、そして楽譜の中で強調されるべき個所を読む能力」の邪魔になるのではないかと懸念したのである。しかしこの推薦状を書くころにはすっかりツェルニーの暗譜力に脱帽していた。(P. 138)
―毎週日曜日、自宅で主催した(主に生徒のおさらい会のためだが、ベートーヴェンをはじめとする音楽会のVIPもよく来た)演奏会ではベートーヴェンのソナタを良く暗譜で演奏した。(P. 26 )
2.自身のベートーヴェン解釈論、そしてピアノ教育論に関して著書が多い。
―作品500の中で「譜めくりはピアニストの左側に座る」との言及から全てのピアノ演奏に暗譜が必要とは考えていなかったことが分かる。
3.「楽譜が絶対」=「作曲家が絶対」=暗譜?の動きを始めた人物。

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