最終章の出だしで私が書こうとしていること


器楽曲は「崇高」だと言う考え方はベートーヴェンが活躍する直前にすでにTieckとWackenroderによって提唱されていた。その後、ベートーヴェンを崇高な器楽曲作曲家の象徴とする動きは1800年ごろから始まる。それと時を同じくして、暗譜の記述が増え始める。
これは偶然ではない。
「崇高」とされた器楽曲は「絶対音楽」と呼ばれるものである。ここに於いて始めて、音楽はプロセスではなく芸術的創造物となる。演奏イベントでは無い、すでに創造され完成されている音楽を蘇らせるだけである。しかもその創造物は完璧であり、その全体像を把握して始めて詳細の意味が分かる、とされた。つまり、始めから終わりまで音楽を経験したのでは絶対に分かり得ない。だから初見はもうだめ。そして事細かな詳細全てが全体の一部として重要な役割を果たしているため、一音でも変えると、全体像が崩れてしまう。だから昔の様に楽譜に装飾音を足すとか、即興アドリブを入れるとかも、NG。つまり「絶対音楽」に於いては奏者は楽譜を忠実に再現することが求められる。そして全体像を把握し、一音一音が全体像を完成するためにどのような役割を果たしているか理解し、その全てを消化した上で演奏して初めて、芸術になる。
暗譜になるのは、当たり前ではないか。
これを、明日と明後日で、書きます。