書評:「Sound Unseen」「Music, Sensation and Sensuali」

ここ二十年来の音楽学は変貌を遂げて来ているそうである。

最近では作曲家とその作品、それらに関する当時の哲学的・分析的言及のみならず

当時の演奏者や聴衆に関する研究、アマチュア音楽愛好家の活動や、

音楽家のパトロン、音楽産業の市場事情など、さまざまな角度から

実際の音楽活動がいかに行われ、いかに受け止められていたのか、

研究が進んでいるそうである。

だから私の博士論文のトピック「ピアノ演奏に於ける暗譜の起源」は「ホット!」なんだそうだ。

 

そう教えてくれたのは、去年ライス大学の音楽学助教授として就任して来たキーファー。

彼女の専門は、19世紀終焉から20世紀初期にかけてのフランスでの科学の歴史、五感の歴史がどのようにドビュッシーの音楽に於ける自然主義へと発展したか。

彼女が、私が先日ブログに書評を書いた「ロマンチックな演奏解剖学」を勧めてくれた。

http://ameblo.jp/makikochan6/entry-12186148890.html

 

その彼女が次に勧めてくれた本がこれ。

Brian Kane著、Sound Unseen: Acousmatic Sound in Theory and Practice (2014)

 

ピタゴラスはカーテンの後ろで講義をした、と言う伝説があるらしい。

音源の見えない方が、聞き手が音や音の伝達する情報に集中する、

と考えたピタゴラスの工夫だった。

カーテンに隠れて講義するピタゴラスに耳を傾けた聴講者を

ギリシャ語で当時Akousmatikoiと呼び、

それが「音源が見えない、音源が明らかでない音」と言う意味の英語、Acousmataになった。

Acousmataの例は宗教的な逸話や、科学が発達する前の自然現象など、色々あるが

引き起こす反応は大きく二つ。

1.音源を明かそうと躍起になる。

2.恐怖心、好奇心、畏怖の念、宗教心などに満たされる。(「崇高」?)

 

これは、私の論文に直接使える!

「音源」を楽器や奏者とせずに「楽譜」として(これはベートーヴェン以降の絶対音楽に於いて19世紀ごろから出回り始めた不思議な概念)、楽譜を使わずに暗譜で行う演奏を「Acousmata」=崇高とする。

…どうだ~~~!

 

イェール大学で教授を務めるBrian Kane博士はこのピタゴラスの伝説が実は事実無根である事をまず解明し、なぜこんな伝説が出来たのか伝説の歴史的重要性を追求するなど、音楽学者では無いの?と言うような緻密は研究で本の最初の章を始めたりするのだが、私はそこは読まずに割愛。その後、本は録音の市場、BGMの氾濫、電子音楽へと飛躍。そこも私はスっ飛ばす。

 

私が興味あるのは4章目。見えない音楽、演奏の要素から切り離された音楽は「絶対音楽」。それを正しい状態で正しく聴いた人間は、超越体験をすることが出来る。ワーグナーはバイロイトの自分の「総合芸術」を演出するオペラ劇場でオペラを完全に客席から見えないように、角度とピットの蓋に工夫をした。しかしその前にすでに18世紀末から「目をつぶって音楽体験」と言う記述は絶対音楽に於ける崇高の概念を打ち出した物書き、Wackenroderなどによって提示されていた。などなど...

 

この本にもKantやSchopenhauerが沢山出て来るのだが、この本は焦点がはっきりしていることと、KantやSchopenhauerの引用がトピックにはっきりと関連性がある事などから、とても読みやすかった。それにしてもこの人は歴史・哲学・電子音楽と実に多様な事に言及している。なんだかスーパーマンに思えてくる。そして私よりも5年くらいしか年上じゃない。ガーン。

 

キーファーの他に、私は最近、物凄い学者さんと親しくなってしまった。

先週私が講師として参加したArtsAhimsaと言うアマチュア向けの室内楽音楽祭で

ヴァイオリンの受講生として参加していた女性が実はコロンビア大学やバーナード大学の教授をし、色々な財団から受賞をしているすごい人だったのだ!ミルクの歴史的背景や社会背景を中世から現代にいたるまで描いた本を2011年に出版している。ArtsAhimsaの図書館にあったその本を私は音楽祭滞在中に二章ほど読んで「この人は凄い!」と思い、自分の博士論文についてアプローチした所、意気投合してしまい、文献の紹介や意見交換など物凄く話し込んでしまった。でも私は博士論文を書いている学生。向こうはアイヴィーリーブの教授。年齢も一回り違うし…と、ちょっと遠慮していたのだが、音楽祭から帰宅した翌々日、とっても長いメールが来て、私との意見交換がいかに新鮮だったか書いてあったのだ!そしてもう一つ文献を紹介してくれた。

 

Linda Pyllis Austern編、Music, Sensation and Sensuality:Critical and Cultural Musicology.

この本は目次をパッと見私のテーマにすごく関係がありそうに見えたのだが、残念ながら関連がかすかにある章は3つのみ。南米から東欧、中世・ルネッサンスから現代まで、この本は言及している時代と地理があまりにも多様過ぎた。

第二章:ディデロと音への敏感さについて。(Anton Bemetzriederと言う今では無名の鍵盤楽器教師が教則本を書いている。彼がディデロの娘のハープシコード教師でしかもこの教則本にはディデロがかなり密接に関わったらしい、と言う事を解析。一番面白いのはこの教則本が当時の常識に反してラモーの和声進行を疑問視している、と言う事。

第四章:音楽・言語の絡みを解く。

音楽が女性的とされるのはなぜか?言葉の対局にあるから。いつから文化対自然、人間対動物、知性対肉体、理性対感情の対立の元、音楽はいつも後者に近いとされていた。しかし、音楽を女性的とするのは音楽そのものの性質とは何の関係も無い。男性的な文化、言葉、知性がそう言う常識を創り上げたのである。これは私の第一章「感覚で覚える:自然主義」に使える。ルソーについての言及がかなり深く突っ込んである。

第18章:音楽の知覚研究の歴史。

ここで私のテーマに関係があるのは、Hermann von Helmholtz(1821-94)が音響を理解するためには、我々の聴覚がどう働くか解明しないとだめだ、と言う事を音楽と結び付けて1860年代に提唱した、と言う事だけ。それまでは音波の計算など、音響の物理を音楽や人間の知覚とは全く切り離して研究されているだけだった。

 

あと三冊読破しているのだけれど、これらの書評はまた明日。

旅行中、特に移動中は読書が捗る。

 

 

 

 

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