喋るように書く

ライス大学図書館の論文指導部で部長を務めるエリザベス。

経歴を見ると恐れおののくほど素晴らしい人だし、才色兼備。

その人がなぜか私の博士論文の過程に於いて物凄く協力な味方になってくれている。

 

普通は論文指導は文学部の博士課程の生徒などが行って、エリザベスはその全てを取り仕切ったり教授群と交信したりするのだが、私の論文には個人的に興味を持ってくれて「私が指導します」と言ってくれた。ストーカー騒動の一連で私のコンピューターファイルがバックアップも含めて全て破損されてしまった時、私はエリザベスの前でだけは泣いたのだが、その時も「こんな状況でも私にはあなたの明るさと強さが見える。あなたは大丈夫。書きつづけなさい。」と励ましてくれた。そして、私がエリザベスに電子メールの添付として送信していたそれまでの論文をくっつけて私の論文を再現してくれた。(その後、ライス大学のITチームが私の破損されたハードウェアからファイルを復元することに成功してくれたので、私は論文本体のみでなく、それまで取っていたノートなども全て戻って来た。めでたしめでたし。)

 

そのエリザベスはでも、私の事を面白がって買ってくれているのは分かるけれど、私の論文のまとめ方にはいつも難色を示す。「ほら、例えばここであなたは一つの見解を提示している。この書き方だと次にいくつかの例がだされるのかな~、と期待していると、この『見解はしかしこういう反対論に会うかも知れない』と来るからこんがらがっちゃう。」と本当に残念そうな顔をする。そして「ここは意味が分からなかった。この段落では何が言いたいの?」私が説明を始めると、「ああ!分かった!」と実に晴れやかな顔をしてくれる。

 

この前は「口で説明してもらうと本当に良く分かる。でもあなたの書き方は本当に分かりにくい。わかった!こういう実験をしましょう。このセクションであなたが言いたかった事を口頭でしゃべって、それを録音したモノを自分で聞きながらタイプして頂戴。それを私に送ってくれる?そしたら私があなたの口頭の説明と文章のどこにギャップがあるか、書いて見せて上げます」

 

そこで私は図書館の「グループ・スタディー室(机、いす、プロジェクター、ホワイトボードとマーカー、テレビモニターなどが設置されていて、ある程度の防音処置がされ、中で議論しながら勉強出来るようになっている)」を一人で借りて、(ちょっと恥ずかしいな~)と思いながら、自分のスマホにぼそぼそと語りかけ、それを文書に起こすと言う作業を行ったのである。これは難しかった。エリザベスは自分では意識していないのかも知れないが、私の説明中に実に積極的に質問してくるのである。「え?今のはどういう意味?」とか「今あなたが言った事はつまり、こう言う事?え?違うの?じゃあ、こう言う風には言える?例を挙げてみて?」それで、私はエリザベスが不明に思っている点が明確になってくるので、そこを中心に説明が出来る。それにエリザベスは自分が納得するまで許してくれない。

 

私は自分が何が言いたいかは、かなり明確になって来ている。19世紀の鍵盤楽器奏者の暗譜と言う、物凄く限られた議題に関しては、私が今世界で一番物知りかも知れない。これが学術論文でなければ、自分の主張とか歴史的事実に一々出展先を明確にしなくて良ければ、エッセーでよければ、「明日にでも出版できる!」と思う。だからエリザベスの様に興味を持って熱心に聞いてくれる人相手にならいくらでもべらべらしゃべれるし、色々な視点(例えば:歴史・社会背景・女性問題・人種差別問題・工業革命・技術工学の発展・19世紀ヨーロッパ都市化・社会革命・経済・政治)から暗譜の起源について語れる。

 

でも、私は音楽学の専門で無い。どんな分野でも学者になるべくして正当的な教育を受けてきたわけでは無い。むしろ、ピアニストになるためはそんなものは無駄とする音楽学校の文化の中で勉強しないで練習だけした来た。そしてこの論文は音楽学の専門家に何とか許容してもらえるように背伸びして書いている。一文書くと(ああ、しかしこう言う角度から突っ込まれるかも知れない)と思ってしまい、その反論に先手を打っておこうと思って書き足していると、論点がずれてしまう。さらに、私の言おうとしていることは証拠が少ない。そして私には、私の言う事に自動的に箔をつけて来るかもしれない学者としての経歴が無い。だから、言葉を連ねて論理の様な屁理屈をこねたくなってしまう。だって、私がリサーチのために読んでいる19世紀のドイツ人はそうやってるし。

 

しかし。

私がこの論文で達成したい一つの目的はクラシック音楽に付随する「裸の王様」現象を暴き、「王様は裸だ!」と言う事である。それは、願わくばクラシックをより一般的に、より親しみやすく、より音楽本来の姿に戻す事、である。リサーチを通じて、クラシックに付随するエリート主義が19世紀のドイツ・ロマン派の理想主義(それはドイツの国粋主義、アーリア人種優勢主義にもつながっているように見える)に密着しているかがどんどん分かってくる。そしてこの19世紀のドイツ人たちは、自分が良く分かっていないことを、沢山の難しい言葉を使って煙に巻いて片づけてしまう、と言う事を良くやっている。ヘーゲルは「音楽の事はあまり分からないが」と言いながら「音楽がこうだ、ああだ」と色々論じて、それがそのまま音楽理論者や批評家や音楽学者に今でも物知り顔で引用されてしまっていたりする。

 

私は、私のコンプレックスを理由に同じ言葉で煙に巻いて自分を隠すことをしてはいけない。簡潔に自分の論点を、音楽専門で無い人にも通じるように書く。

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