体制立て直し。論文「金曜サスペンスドラマ風」


非常に苦しい数日を経て、今一つの理解に達した。

 

私は間違っていた。

 

「ピアノ演奏に於ける暗譜の起源」と言うトピックで博士論文を書く為に

私は今までの不勉強を埋め尽くすために

間接的に関係あると思われることについて手広く調べた。

これは暗譜に関する直接的な言及が

歴史的にも、音楽史に於いても驚くほど少ない事を受けて苦肉の策でもあった。

 

結果、私は古代ギリシャの英雄たちの演説や、記憶術、

ホーマーの叙事詩がどのように口伝えで代々記憶されていったのかと言う研究を始め、

さらには音楽とは何か、と言う大きな題目を検証するために

宗教音楽として始まったいわゆる「クラシック」が

宗教から独立した時にどのような大義名分を持って

存在意義の主張と経済援助の正当化を計ったのか、

その背景にあったアメリカ独立戦争やフランス革命などの政治革命、

工業革命の結果起こった都市化、分業、テクノロジーの発達

思想革命で変わった個人の自意識と世界観の変化、

さらには演奏会がこの頃儀式化したことを受け、

「儀式とは何ぞや」と考古学や認知心理学などまで読んだ。

 

それは非常に興味深い作業だったし、沢山、沢山学んだ。

楽しかった。こんなに勉強させてもらえる特権を私は感謝している。

 

でも、私が間違えたのは、自分の論文を書くと言う作業に於いて

これらのリサーチで学んだ新しい知識を羅列して、

それぞれに暗譜をこじつけていく、と言う風に書こうとしていたのだ。

これじゃあ、論点は伝わらない。

 

暗譜を前押しに。奏者の視点から。と、言う事でもう一度組み直し。

「金曜サスペンスドラマ風」と言うのは、12月12日付けでブログに書いた構成の方式です。

1.事件のシーン(いつ・どこで・誰・何があった)、問題定義(なぜ・誰が・どのように)

2.一見殺人とは無関係で平和そうな(雀がちゅんちゅん)でも実は事件解決に重要な背景情報(探偵や目撃者の日常生活の風景、など)。

3.事件解明の捜査過程(なぜ、誰が、どのように。)

4.道徳(何がこの事件から学べるか)

 

第一章。「自然に覚える:本能でする暗譜」

1.いつ?1834年; どこで?ベルリン; 誰が?カークブレナーと言う当時有名だったピアニスト・作曲家と、A.B. Marxと言う評論家・音楽理論家(私の論文の最終章の重要参考人);

 

事件:カークブレナーがA.B. Marxの好印象を買おうとした。「最近は即興演奏が本当にすたれましたね~。私の即興を聴いてください」と吹聴し、十数分にわたってフーガや色々な技法を駆使した素晴らしい演奏を披露した。A.B. Marxは感心したが、翌日カークブレナーが出版した楽譜に目を通している際、前日の「即興」が実は1823年に出版されていたカークブレナー自身作曲の「Effusio Musica」と寸分違わぬ暗譜演奏だったことを発見した。

 

問題定義:なぜKalkbrennerは自分が出版されている作曲家で在ることや、暗譜演奏に長けている事を誇示するよりも、それを(ばれるリスクを負いながら)「即興」と偽った方が印象が良くなると思ったのか?A.B. Marxはこの逸話をカークブレナーの汚点として面白くおかしく伝えているが、自分が暗譜演奏と即興演奏を見分けられなかったことをなぜ恥ずかしいと思わなかったのか?

 

2.西洋音楽の根本に「音楽と言うのは記譜することが可能である」と言う概念がある。(雀ちゅんちゅん)聞いた事が無い曲を時空を経て再現可能にする緻密な記譜法を編み出したことは、西洋音楽を世界の音楽の中でも例外的な存在とした。記譜法があったために西洋音楽は急激な発展と複雑化を遂げ、どんどん芸術的になり、楽譜に忠実に一音とも足さず、変えずにそのまま再現すると言う行為・概念が可能となった。「暗譜」ーすなわち、楽譜に忠実に記憶から音楽を再現する、と言う概念も楽譜があって初めて在り得る行為・概念である。

 

3.1)音楽と言うのは時間の芸術であるから、音楽体験の全ての形に於いて(鑑賞・演奏・作曲・即興)記憶の介入は必然である。そのジャンルに適当な形式展開や和声進行、今聞いている曲のそれまでの経緯の記憶を踏まえて、来る瞬間が楽しめ、その次に来る物への期待が高まり、音楽が理解でき、音が楽しい行為となる。記譜法が布教される以前の西洋音楽、更に西洋音楽の様な緻密な記譜法を持たない文化の音楽では特に音楽鑑賞が記憶に頼る度合は高まる。

2)記譜法布教後の西洋音楽で、楽譜を使わない演奏と言うのは、即興を指すことが多かった。楽譜を使わずに行う既存の曲の忠実な再現は、奏者の能力に欠けているところがあると解釈される危険性があった。例えば、盲目、創造力の欠如(女性・アマチュア)、サヴァン症候群、など。能力は存分にあるが、既存の曲を暗譜演奏する場合、奏者はアリバイを作った。モーツァルトはコンチェルト演奏の際自分のソロ・パートを書き出す時間が無かった際、メモ用紙の様にメロディーの一部などを書き留めた紙を楽譜立てに置いた。メンデルスゾーンは楽譜を忘れて来て、他の楽譜を楽譜立てに置いて適当に譜めくりをしながら「暗譜演奏」をした、と言う記述がある。パガニーニは楽譜を演奏会場に持っていくと盗まれて著作権侵害の被害に遭うため、楽譜を使わないと言っていた。これらの自作自演の場合、どこまでが暗譜でどこまでが即興か、はっきりと言う事は不可能である。しかし、即興演奏も和声進行やメロディーの概要などの記憶を基に演奏するので、音楽に対する記憶力を動員していることに間違えはない。

3)後にロバート・シューマンの妻となる神童クララの教育を全面的に行ったFriedrich Wieckは音楽は独学で、大学では神学を勉強した。神学を専攻する学生は後に教師となる者が多かったため、教育学も神学の一環として教えられた。そのため、父Wieckは当時の音楽教育者としては珍しく、流行の教育論や哲学に精通しており、クララの教育にルソーやパスタロッツィ、そしてJohann Friedrich Herbertの教育論、さらにはヘーゲルの哲学を取り入れた。「体験の後に知的理解」と言うルソーの教育論に従い、クララはピアノの習い始めはピアノでの即興演奏や作曲、耳で覚えたメロディーを弾く、和声進行を色々な調性で弾く、などの訓練を受けた。楽譜を読
むことはピアノを弾き始めて数年経ってから学んだ。このため「音楽を記憶する」と言う事はクララにとっては自然な事であった。

4)ルソーの「自然に還れ」の影響もあり、音楽性は人間性の自然な一部である、音楽を楽しむと言う行為は努力を要さない、自然に湧き上がる行為であるべきである、と言う考え方が幾つかの結果となって18世紀の演奏様式を暗譜が簡単にできやすい物とした。

―演奏会はお子様ランチ形式で、ヴァラエティーに富み、独奏曲が少なかった。

―演奏会自身が真面目に儀式化される以前、聴衆も奏者も気楽で、プレッシャーが少なく、何でもありの雰囲気があった。

―演奏される曲も、構築もメロディーや和声進行も方程式に従った予測がつきやすい物が多く、即興演奏と予め作曲された曲の間に大差が無かった。(だからカークブレナーが暗譜を即興と偽った際見破れなかったことをA.B. Marxは大して恥とは思わなかった)

5)ルソーの「自然に還れ」は文化に汚されていない、無垢な人種の音楽に憧れを見出した。

ジプシーの即興演奏はまだ子供だったリストを多大に影響した。男性よりも自然に近いとされていた女性の演奏者が増え、神童はもてはやされた。演奏会では奏者も聴衆も自然体で、「静かに聞く」と言う、儀式化された風潮はまだ無かった。クララが8歳でデビューした当時、音楽と言うものはプレッシャーを感じてする活動ではなく、クララはのびのびとその発達の一歩を踏み出すことが出来た。

 

4.この事件から何が学べるか:

暗譜と言うのは古来永劫、形は変わっても音楽の演奏には付き物である。19世紀までは即興の影に隠れ、特に脚光を浴びる行為では無かったと言うだけで、暗譜がと言う行為がされていなかった訳では無い。そして即興演奏と言うのは様々な形の世界音楽で脚光を浴びる演奏様式であり、今のクラシック音楽教育に於いてほぼ完全に無視されている方がむしろ不自然な事である。しかし、正確で緻密な記譜法が発明された時から西洋音楽の演奏は「忠実な再現を要する、即興では在り得ない複雑で緻密な作曲」、さらに「読み解くのが非常に困難なので深い理解への道を正直にたどると最終的には暗譜演奏になってしまう」音楽に到達する可能性をいつも含んでいた。

一章目で検証された西洋音楽の発展段階に於いてはルソーの「自然に還れ」の音楽への反映もあり、作曲に純粋さが求められ、即興演奏がもてはやされた。まだ即興と暗譜演奏は見分けがつかなくてしょうがない、とされていた。作曲技法が単純で公式に沿った常識的なモノが多く、即興出来得るものであったからである。しかし、2章目と3章目に於いて、それが変わっていく。

 

第2章。「見せつける記憶:ヴィルチュオーゾの暗譜は体で覚える」

1.いつ?1838年vs.1840年;どこ?ウィーンvs.ロンドン;誰?ヴィルチュオーソなリストとウィーンの熱狂的な聴衆(1838)vs.ロンドンの冷淡な批評家(1840)

 

事件:1838年、26歳のリストはウィーンの聴衆に熱狂を持ってもてはやされた。7週間の滞在中12の演奏会を行ったリストは自作自演の超絶技巧の曲と共に、ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンが聖地とした「音楽の都」に於いてウィーンの聖者たちの曲をも演奏し、さらにはまだあまり知られていなかったシューベルトの歌曲のピアノ独奏用の編曲を披露。全てに於いて拍手喝采を受けた。当時としては珍しく「ヴァラエティー・ショー」の要素を最小限に押さえてほぼ全ての曲に自ら出演し、1840年の独奏会(リサイタル)へと発展するピアノ中心の演目を組み、ベートーヴェンの交響曲のピアノ独奏編曲やソナタをも演目に組んだ。さらには聴衆に親しく語り掛け、演奏会場を「プライヴェートな場所」にする演出も斬新だった。これらの試みの全てが大成功だった。まだ19歳のかろうじて「神童」のクララ・シューマンや、ライヴァルのThalbergも同時期にウィーンで演奏活動をしていたが、多くの聴衆や評論家がリストの勝ちと判定した。リストは英雄や魔法使いや悪魔や神に例えられた。ウィーンでの成功はリストをヴィルチュオーソのキャリアに押し出した。このウィーンツアーの唯一の汚点は、ここまでの成功にも関わらず狙っていたK.K. Kammervirtuoso(帝国・皇室のヴィルチュオーソ)と言う称号を授けられなかったことだった。クララ・シューマンは若年で、しかも女性で、さらにカトリックのウィーンに於いてルター派信者であったにも関わらず同年この名誉に授かっていたと言うのに。さらに、リストのライヴァルであるThalbergもすでにこの名誉に授かっていたと言うのに。

この汚点を助長するかのように、1840年のロンドンに於いて、リストは冷淡に迎えられる。「音楽の都」の聖地で熱狂を持って迎えられた彼の「田園」交響曲6番のピアノ独奏用編曲の演奏は、ロンドンでは「音が付け加えたり変えられたしている。テンポも交響楽団の演奏ではありえない自由さがみられる」と批評され、彼の演奏は「動物的」で「演奏技術は素晴らしいが売春目的と言う最低な目的に使われている」と酷評され、彼自身の作曲については「筆者が人生で聞いた中で一番醜悪な音楽」とまで言われた。これが音楽史に於ける最初の「リサイタル」―最初から最後まで全てを独奏することーだったことについての言及はほぼ皆無だった。このようなワンマンショーを「リサイタル」と呼んだのはこのときのロンドンの評論家である。Recitalと言う言葉の語源、動詞の「To recite」には暗唱と言う意味があり、暗譜を示唆する。しかしリサイタルと言う新名称の確立も、最初の公開ワンマンショー「リサイタル」だったと言う史実も、さらにはこの演奏が多分全て暗譜で行われたと言う事も、あまりメディアからの注目を浴びなかった。

 

問題定義:1838年ウィーンと1840年のロンドンのリストに対する両極端な反応の理由を解明することはこの論文の目的では無い。この二つの例で重要なのは、ヴィルチュオーソと言う存在が、当時の聴衆や評論家から病的なまでの愛憎を持って迎えられたと言う事である。この論文に於いて重要なのは、この1838年の演目のどこまでが暗譜だったのか?「全て」、あるいは「大体」、さらには「一部」と、暗譜についての記述にばらつきがあるのはなぜか?1840年の史上最初のリサイタルがここまで音楽史で軽視されているのはなぜか?「リサイタル」は本当に言葉の定義に「暗譜」が含ま
れるのか?さらに私たちがその起源を問いただすことなく今まで伝承してきた「暗譜」と言う演奏様式のどこまでがヴィルチュオーソから受け継がれているのか、と言う事である。ヴィルチュオーソと言う演奏形態に於いて暗譜はどこまで必然的なのか?

 

2.音楽と言う「高尚な芸術」との関わり合いを考慮する中で、「演奏」と言うのは一番肉体的な即物的な要素である。肉体は滋養や生殖の実際的な必要性を持つことから、人間を物欲や性欲の誘惑に対して弱くする、悪い物だと言う考え方は古来からあった。(雀ちゅんちゅん)古代ギリシャの音楽に対する哲学をヨーロッパ中世に広めたボエティウスの教典では、技術向上と演奏と言う行為に没頭し音楽への知識や考察を伴わない奏者たちを「奴隷」と蔑んだ。

 

元々ヴィルチュオーソと言う言葉はラテン語の「Virtu(有徳、人徳)」に語源を持つ。イタリア語の「ヴィルチュオーソ」は16,17世紀から使われ始めた。当初は「徳に長ける人」と言う意味で、音楽の分野に於いては演奏と言う行為よりも音楽理論や作曲に長ける人を指す場合が多かった。1720年ごろにこの言葉は国際的に使われるようになる。当時のヴィルチュオーソを論じたMatthesonの記事では理論に長けるヴィルチュオーソ(Theoretische Virtuosen)と演奏に長けるヴィルチュオーソ(Virtuosi Prattici)と二派にわけて論じている。そして1780年ごろからオペラや協奏曲と言ったジャンルの流行化を受け、ソリストをヴィルチュオーソとする動きが強くなる。1840年になると「ヴィルチュオーソは楽器演奏の技術向上のために練習時間を費やすので作曲を勉強している時間はない」とまでする記述も出てくる。

 

この様な分業は工業革命の間接的な結果なのだが、それはこの章の本体(事件捜査の段階3)で検証するとして、ここで言うのは、演奏と作曲の分業が進めば進むほど、演奏と言う行為が音楽の知的・精神的考察に相反する行為として観る動きが極端化された、と言う事である。しかし同時に工業革命の結果の都市化、さらに個人の思想の自由の尊重と言う価値観の移り変わりを受け、私生児が劇的に増えポルノ産業が栄えた風潮の中、ヴィルチュオーソへの熱狂は人々の心理的需要の何かを満たしてもいたのである。その中で暗譜はどこまで必然的だったのか?どこまでが第一章「自然な暗譜」の延長だったのか?

 

3.1)工業革命の結果

奏者と作曲家の分業と言うのは、工業革命の結果起こった数々の分業の一部に過ぎない。工業革命はさらにヴィルチュオーソ現象を引き起こす様々なきっかけを作った。

ーピアノと言う楽器の発展と改良=>ヴィルチュオーソは常に新しいピアノに合わせた演奏技術や演奏効果を開拓し続けた。

ーピアノの量産=>アマチュアの量産=>音楽市場の拡大

―分析出来る物は量産できると言う考え方:グループレッスン、ピアノ教則本、練習補助の機械(メトロノーム、手首ガイド、指上げ訓練機、などなど)

ー出版産業=>音楽知識の拡散=>宣伝=>音楽・演奏家の国際化

ー質より量と言う考え方=>練習時間の多さを競い合うようなヴィルチュオーソ文化。

ーテクノロジーが発展する中、人間が機械に勝てるのか、と言う懐疑心=>ヴィルチュオーソは機械(=ピアノ)を君臨して打ち負かす!(リストはあまりにも多くの弦や鍵盤を切ったり壊したりするので演奏会でいつも2台か3台用意してあり、壊す度にとっかえひっかえしていた。)

 

2)都市化の結果

プライヴェートな場と公共の場に於ける自意識のギャップの妥協に人々は苦しむ。プライヴェーとで自己を見つめる時間が大事だが、公共では常識に乗っ取ってふるまう事を期待されている。しかしみんなひそかにプライヴェーとな自分を公開したいと言う欲求を多かれ少なかれ持っている。ヴィルチュオーソは一番個人的な感情を人々の前で露出し、人気者になっている。人々はヴィルチュオーソの様になりたい!と思う。さらにヴィルチュオーソの演奏会に於いて人々は演奏に反応して自分の感情を発散できる。

 

それまで政治や王政によって統括されていた公共の場の多くが個人がアクセスできるスペースとなる。貴族社会の崩壊、ナポレオンの技術科政治などによって、人々は初めて自分の社会的価値が生まれ落ちた家族によって決まるのではなく、技術や知識や富を勝ち取ることによって自分でゲットできるものだ、と思える世の中になる。自分の特殊能力を誇示することによって富と名声を得ようとする「ヴィルチュオーソ」が色々な分野に於いて沢山出てくる。これらのヴィルチュオーソに共通していることは、自分の技術の中で評価が集まりやすい部分をより強調して、見世物としての価値を高める努力をすることである。この方法の一つに「視覚を除外する」と言う物があった。チェスボードを隠してチェスのゲームに勝つ。目隠しをしてマジックショーを行って見せる。そして、楽譜無しで演奏をする。

 

3)ヴィルチュオーソのジレンマ

ヴィルチュオーソは「人間は機械よりもっと正確に速く強く動けるぞ!」と誇示して受けた一方「人間は機械(ピアノ、でも肉体も機械)を君臨するんだぞ!」と言う体現でもあった。ヴィルチュオーゾは意思の力で体を君臨すべく一日に十時間も練習した。(一日10時間も練習していれば大抵の者は大抵の曲を暗譜してしまう。)しかし、ヴィルチュオーソと言うのは練習すれば誰にでもなれる物なのか?だったらヴィルチュオーソの価値と言うのはどこにあるのか?

リストはチャリティーコンサートを多くしたり、聖職者になったり、そう言う事で自分の人間らしさ、特殊価値を見出そうとした。そしてベートーヴェンなどの音楽を多く演奏することによって自分に「芸術的」な価値を付随しようとした。この動きが第三章「超越精神の暗譜:頭で覚える」に続く。