ドビュッシーの生家のある街、ノートルダム聖堂でのミサ ―パリ6日目

昨日は朝は練習と荷造り、
そしてお昼にピアノ付きの借りていたアパートを引き払い
(そのアパートの持ち主が旅先から帰ってくるので)
パリの中心地(マドレーヌ広場)にある4.3星ホテルに移りました。
部屋には大きなバスタブと、ヴェランダが付いていて、
ヴェランダからはマドレーヌ聖堂と、マドレーヌ広場、そして遠くにはエッフェル塔も見えます。
そして、私がパリの街を歩きながら見上げては恋焦がれた、
小さなヴェランダの上の小さなテーブルと2脚の椅子も!
嬉しい!!
今、そのヴェランダでお紅茶を飲みながらこのブログを書いています。
ホテルに移った後は荷物だけ降ろして、
ドビュッシーの生家があるパリから電車で20分ほどの郊外、サン・ジェルマン・アン・レーに。
パリはとても凝縮されている、人口密度の高い都市なので、
東京のようにやはり込み合った郊外が延々と続くと思いきや、違うのです!
Givernyに行ったときもびっくりしましたが、
Parisからでると草木の生い茂る、ほとんど田舎!
Saint Germain en Layeはヘンリー4世のお城もあって、
その前には大きな、物凄くきれいな公園が広がっています。
天気の良い日曜日で、この駅で降りた人は多く、その沢山が公園に足を向けていましたが、
でも、それらの大衆を全部吸収して、
まだゆっくりと人を気にすることなく歩き回り、
皆がゆったりとピクニックできる大きさとデザインです。
ドビュッシーの生家の展示室は生憎日曜で休館でしたが、
ドビュッシーは本当の中産階級に生まれたんだな、と実感できる家並みでした。
一戸建て、と言うよりは日本の小さな住宅街の一軒、と言う感じ。
隣り合わせの家の壁がくっつきあってずらりと何軒も連なっている町並み。
でも、とても可愛いです。
その後、ノートルダム聖堂で6時半からのミサに出席しました。
ノートルダム聖堂と言うのは建設に100年以上かかっている大聖堂で、
音楽史上の最初の部分で特に重要だった場所です。
楽譜の記法がはっきりと設立された、対位法の最初の発展がここを中心に起こった、など。
私はそこでのミサにどうしても出席したかった。
オルガンも、聴きたかった。
しかし、最終的に一生の思い出になるのははきっと
私の前の列に座ったきれいな黒人のお姉さんのことだと思います。
だってミサは全部フランス語だし(歌は時々ラテン語)、
それにこのお姉さんは1時間強のミサの間に実に15個ほどの飴を食べたのです。
はじめはその包み紙をゆっくりとはがす音が気になって気が付いたのですが、
小さな葡萄色の硬い飴をこのお姉さんは飲み込んでいるかのように次々と口に入れるのです。
一個の飴が口に入ったその瞬間に次の飴の包み紙をはがし始めている風です。
そして、あ!その一個をその豊満な胸の谷間に落としてしまいました。
そうしたら、あ!臆すること無く右手を自分のシャツの中に突っ込んで20秒ほどその飴を探し、
あ!食べてしまいました。
強烈な印象です。
観光スポットでもあるこの教会、
沢山の国から沢山の信者と非・信者が出席したミサだったと思います。
私のようなもぐりは聖歌も全然歌えず、どこで立つかも、どこで座るかも、見よう見まね。
でも、そんな観光客の分まで頑張る決意を誇示するかのように、
私の左前のめがねの純朴そうな男性は大きな声で言葉をはっきりと発音しながら歌い、
私たちにお手本を示すがごとく、堂々と座り、堂々と立ち、大きな十字を切り、
頑張ってミサに参加をしていました。
そして聖体拝領の前の隣人に挨拶をするやつ。
私は日曜学校に通い、小学生の頃は教会の聖歌隊で歌わせてもらっていました。
お友達が多くて楽しい経験でしたが、ミサのこの隣人への挨拶だけはいつも苦手だった。
照れくさいのです。
でも、こういう外国で、いろんな国のいろんな人(飴のお姉ちゃんも含めて)と
目線をきちんと交し合って、微笑みあって握手して、フランス語でブジュブジュ言うのは
(私は本当に口の中でフランス語もどきをブジュブジュ言いました)
何だか心温まる良い経験でした。
私の右横の背の高い白人男性と握手をするのを私がちょっと忘れてしまっていたら、
いつまでもじっと私を見ていたので、私があわてて握手の右手を出したら
本当に嬉しそうに握り返してブジュブジュ言ってくれたので、それもとても嬉しかった。
良い思い出になりました。
今日は学会で発表する日です。
風呂桶につかっていたら、準備の時間が減ってしまう!
でも、つかりたい!
急いでつかります。

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