なぜ、緊張するのか。


すでに伝説のホロヴィッツも
本番前はガタガタ震えるほど緊張していたらしい。
ラドゥ・ルプの緊張ぶりはNYフィルとの共演前の楽屋で、
手を伸ばせば届く距離で実際目撃したことがある。
「忘れたらどうしよう?忘れたら、どこから弾き直せばよいんだ?」
と、独り言のように共演者の内田光子に訴えかけながら
(モーツァルトの二台のピアノのための協奏曲だった)
うろうろと歩き回っていた。
本番前の緊張は本当に孤独に感じる。
誰にも分かってもらえない、と思ってしまう。
吐いたり、下痢をしたり、本当に死んだ方がまし、と思ったりする。
しかし、こういうヴィデオを見ると、(みんな同じなんだな)と分かる。
アルゲリッチの本番前のヴィデオだ。
最近公開された、アルゲリッチの娘が制作したドキュメンタリーからのクリップ。
始めはフランス語やドイツ語でアルゲリッチが独り言を言っているが、
その内日本語のアナウンスで(ああ、日本での演奏会なんだな)と分かり、
その頃からすべてが英語になる。
「熱があると思う」
「すごい眠気」
「今日は本当に弾きたくない」
とか、文句たれたれ。

なぜ、こんなに苦しみながらそれでも演奏を続けるのか?
生贄の様な自己犠牲、と感じるときもある。
この「自己犠牲」「生贄」の構図はベートーヴェンが定着させたのでは、
と私は論文への研究を進めるにしたがって、思い始めている。
もともとバッハ(の平均律集)は旧約聖書、
そしてベートーヴェン(のピアノ・ソナタ集)は新約聖書、
と言うことは古くから言われてきた。
しかしベートーヴェン=イエス・キリスト、と言うのは
難聴に苦しみながら、一時は自殺まで考えたが、
しかし芸術のために、自分にしか書けない曲を作曲するために、
余生を作曲に捧げることを決意したとしたためる、
俗に日本語では「ハイリゲンシュタットの遺書」と知られる文書と
その文書に形作られたベートーヴェンのイメージから来るのでは、
と私は思っている。
そのいかにも19世紀ドイツ・ロマン派的な「苦しみながらも邁進!」の図が理想とされ、
今の音楽家、特に19世紀の作曲や作曲家を主に勉強するピアニストに
引き継がれているのではないか?
しかし、これは本当に音楽のためなのか?
緊張につぶされて、自分のベストが演奏会で尽くせない。
燃え尽き症候群に犯される。
または、自分がやっていることが世界の平和に影響を及ぼすかのような誇大妄想に陥り、
そのためにはどんなわがままも通してしまうような人間になる。
このクリップの最後のアルゲリッチの娘のナレーションに身をつまされる。
「子供のころから母の演奏を見るたびに極度の緊張を経験しました。
無事終われ、早く終われ、とそれだけを念じ、
演奏が終わるときにはぐったりの疲れ切っていました」。
自分の家族を思ってしまう。
私の世界一の応援団。
いつも、ありがとう。