作曲家と演奏家の関係と、その間に入る楽譜


缶詰になって論文を書いていました。
朝から晩までそれ一本でリサーチをしながら書き進めので遅いのですが、
もう19世紀にタイムトリップをしてしまったような
時間も曜日も分からなくなるような3~4日を過ごしていました。
いやあ、18世紀後半から19世紀へかけての期間と言うのは激動の時代だったんですね。
農業革命、工業革命、貴族社会崩壊、ピアノと言う楽器の急発展・加速大量生産。
そして昨日の朝、取り合えず書いたものを提出して、昨日はその後練習です。
11月7日にあるテキサス作曲家5人を取り上げたピアノ・リサイタル。
もうあと一週間後!
昨日はその一人のために彼の曲を通し稽古しました。
手放しで褒めていただき
「何も言うことは無い!」と一回通しただけで帰ってしまわれたのは
拍子抜けだったのですが、まあ、良かったです。
いつも思うのですが、作曲家の視点と言うのは演奏家の視点と随分違います。
音一杯ミスしちゃったなあ、と謝るつもりで近づくと
「完璧だった!」とホクホクとか。
「ジャズっぽく」とか「瞑想の状態で」とか書いてあって
(どういう意味だろう)とすごく考えて、作曲家にお聞きすると
「あれ!?そんな事、そう言えば書いていたね~」と言われて拍子抜けしたり。。。
そのギャップが生じる理由は二つあると思います。
1.演奏家がいかに近視的に音楽を考えているか、と言うこと。
2.演奏家と音楽家の教育がいかに違うか、と言うこと。
演奏家は大抵とても小さなとき(私は3歳)から、
いかに楽譜を忠実に的確に再現するか、を最優先する訓練を受けています。
ところが、それ程の的確さを実際に聞き取れる人は、
他に同じような訓練を受けた人のみです。
それに対して作曲家は大抵もっと成長してから
自分の意志で音楽の勉強を始めた人が多い。
最初に楽器奏者として訓練を受けた人でも、
途中から作曲に以降した場合、
演奏家としていかに忠実に楽譜を再現するかと言う訓練から遠のいてかなり経つので
もっと全体像を見て、細かいところまで聞き取っていないのです。
じゃあ、なぜそんな細かい、自分も忘れるような表記をするのか。
これは記録と記憶の反比例と言うことに関係していると思います。
私の論文でも言及しているのですが、
西洋文化が発展する過程に於いて、
音楽でも、思想でも、事実でも、記録をする方法がどんどん発展して
それに反比例して人間は記憶をする、
そしてリアルタイムの人間と人間が直接情報伝達をする、と言うことを
怠るようになっています。
この現象はテクノロジの発展によってどんどん加速している。
だから、作曲家がわざわざ出向いてくれて私の演奏を聴いても、
自分の記譜の方を自分の耳よりも信頼して、
それを忠実に再現する私に何も言うことが無くなるんだ。
寂しい、と感じるのは私だけでしょうか?