現代曲をどうとらえるか

Ursula Oppensと言うピアニストがいる。
現代曲の演奏で有名な女流ピアニストで、Carter, Lutoslawski, Ligeti, Rzewskiなど
多くの名だたる現代作曲家が彼女の為に曲を書いている。
今日は、その彼女が半日だけタングルウッドに来る、と言うことでレッスンを受けられた。
この頃練習している"Boulez is Alive"(by Judd Greenstein)を聞いてもらう。
正直、この頃この曲にはだんだんうんざりしてきていた。
練習すればするほど、この曲の難解に見せかけて実はからくり的な要素が見えてきてしまい、
しかも数回の作曲家とのメールのやりとりで、作曲家から解釈の自由を許されず、
芸術家として全く信頼されていないような印象を受けてしまい、
「楽譜通り、指示通りに弾かせたいんならいっそコンピューターに弾いてもらったら」
みたいな、投げやりな気持ちになってきていたのだ。
Ms. Oppensに通して聞いてもらって、
「まあ、難しい曲、よく練習したのね」
と、認めてもらったらどっと愚痴がこぼれてしまった。
「作曲家との対話でむしろインスピレーションを吸い取られるように感じたことはありますか」
と、一通り話したあとで聞いてみたところ
「作曲家の指示と言うのは(初演で無い場合)、
あなたの前の演奏、あるいは演奏家に対する批評・反省と思いなさい。
例えば、楽譜に忠実に、と言われるのは
多分あなたの前に弾いた演奏家があまりに自由に解釈しすぎて、それを後悔しているだけで、
貴方が解釈してはいけない、と言うことではない。
どんな現代曲でも、ブラームスを弾くのと同じ常識的音楽性を持って
心をこめて、自然に息をしながら、楽しんで弾きましょう。
メトロノームや、コンピューターの様に弾くなんて、音楽の意味が無いですから」

と言ってもらった。
それを聞いて、どれだけ肩の力が抜け、嬉しかったか、ちょっと簡単には描写できない。
Ms. Oppensは、そういった後に、初対面なのに、ギュっとハグしてくれた。
音楽と言うのは、どんな状況でも、共同制作、そしてコミュニケーションだと思う。
作曲家と演奏家、共演者同志、興業の事務に関わる人々、そして聴衆。
音楽と言うのは言語で、言いたいこと、伝えたい気持ちがなければ、音楽なんてなくても良い。
例え、作曲家の音楽の定義が私の定義と全く別で、音楽を感情や概念の伝達の道具ではなく、
全く自分以外の要素を計算に入れない曲を書いて来たとしても
その演奏の義務が私に来たら、私はその曲を私の感情、概念伝達の為に使います。





2 thoughts on “現代曲をどうとらえるか”

  1. 不思議というか妙な感じですよね~。
    モーツァルトやベートーベンの場合などはもうこの世にいないわけで本人からの指示は欲しくても貰えないのに(それに自由に弾いても少なくとも本人からのクレームはない。笑)、だけど現代の作曲家の場合は本人からの指示はあるけど、演奏者側がそれに縛られたり困惑したりする。
    今のクラシックの世界って演奏者と作曲家が完全に分かれてるじゃないですか。
    昔の作曲家はもう存在しないし、現代の作曲家は演奏をしない。
    そこですよね。
    ピアノが弾けない自分も素人ながらピアノ曲をパソコンで作曲したりするんですけど(ブログに貼ってます)、
    曲を打ち込んで完成させた後、そのままだとあまりにもつまらないので今度は演奏のタイミングをどんどん崩していくわけです(もちろん所詮パソコンの音なので無理があるけど)。
    そこで自分が思うのは、演奏という行為は完全にアレンジの一部だなと。
    自分では弾けない楽器の曲を作ってみてはっきりそう思いましたね。
    常識的な範囲なら弾く側の解釈の自由度はかなり重要ですよ。
    だからクラシックは再生芸術でも生き残れたんですよね。
    そして最高の演奏解釈がある限り、芸術の最高峰としてこれから先も永遠と生き続けます。
    最高の曲はもうすでにたくさん残されているので。
    素人の自分が言ってもいまいち説得力がないのが歯痒いけど~!(苦笑)

  2. >モーツァルトは天才さん
    コメント、ありがとうございます。
    全く同感です。
    演奏家と作曲家と言うのはお互い無くてはならない存在として、甲乙つけられない同等の立場だと思います。でも私は現代曲と作曲家に関しては苦い思い出がいくつかあって、それで固定観念を捨てきれずに、それで必要以上に過敏になっている感もあるかも知れません。
    私も少し作曲をするのですが、作曲家と演奏家のコラボレーションと言うものを大切にするためにも、自作自演にはあまり意味を見出しません。
    それから、作曲家と言うのは自分の曲に関してあまりにも距離が近いために、むしろその曲に最適な演奏家で無い場合が多い気がします。
    例えば、ガーシュウィンの自作自演は、(彼は物凄いピアニストですし、学ぶどころも多いのですが)いつもあっさりと早すぎる気がするし、ラフマニノフにも同じ感を抱くことがたまにあります。
    それから、ハンマークラヴィアが一番有名な例ですが、作曲家のメトロノームの指示と言うのは、概して速過ぎることが多い気がします。
    勿論、頭の中で聴く音楽と言うのは、実際の音響感で聴く音楽より時間を要しませんよね。
    でも、そういう計算と言うのは主観が邪魔して、自分ではできないものなんだと思います。
    一人の人間が一人で見えること、わかること、聞けること、できること、と言うのは本当に小さいと思います。私はそれを深く肝に銘じて行きたいです。今、書いてる曲は即興の要素もありますし、
    それから聴衆の方々に参加していただく曲です。
    ブログに張ってあるYoutube少し拝見しましたよ。
    本当に音楽にこだわりがおありなんですね。
    これからも、お互いいっぱい音楽しましょう!

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