クラシック vs. ポップス


私はロックとか、ポップスとか、普通の若い人が喜んで行くようなコンサートに行ったことが無い。
しかし、最近「マライア・キャリーが好き」と言う人の話を聞く機会があった。この人はマライア・キャリーのコンサートに何回も言っており、今までの人生で一番幸せな思い出はそのコンサートでも特にクリスマスの特別企画のコンサートだそうだ。こういうコンサートには何千人、何万人と言う聴衆が動員される、と言う知識は私も持っている。一体この人たちは何を求めてこういう演奏会に多額の料金を払って行くのか?こういうイベントと、クラシックの演奏会トは何が違うのか?
この人によると、こういうコンサートでは周りが熱狂して叫んだりしているので、音楽はほとんど聞こえないそうである。
でも、大抵の曲はもう何回も聞いて覚えているので、かすかに聞こえる最初のイントロであとは自分の頭の中で勝手に鳴ってくれるので、別に聞こえなくても支障無いそうだ。新曲とか、たまたま自分が知らない曲は、後で買って聞くから良いそうだ。要するに、自分と同じくマライア・キャリーで興奮出来る人たちと、時空を共にしてマライア・キャリーを身近に見る、と言うことに意義があるようだ。
この間のブログで、河合隼雄さんが「芸術とは作者が意図した以上の意味を持ち得る深みを持った作品」と云ったのを読んで感銘を受けた、と書いた。この定義によれば、マライア・キャリーのコンサート自体は余りにも視覚、聴覚に解釈を与える隙を与えないほどの刺激を与えるので、芸術とは言えないかもしれないが、マライア・キャリーと言う歌手そのものは「芸術作品」と言えるのではないか。プロデューサー、演出家、衣装のデザイナー、そう言う人たちが寄ってたかってファンを熱狂させるある幻想をマライア・キャリーを通じて、作り上げる。
どうだろう?
それとも、解釈の余地は無く、ファンは皆興行者の思うつぼにはまって皆同じ夢を見ながら踊らされているだけなのだろうか?だったらちょっと空恐ろしい気もちょっとする。
マライア・キャリー自身の才能とか、存在感と云ったものを全く無視した書き方になったが、でも、どんなに一人の人に才能があっても一瞬で何万人の人を熱狂するパワーと言うのはテクノロジー抜きには不可能な話で、やっぱり不自然なことだと思うのだ。