プロフィール


私のモノローグ的プロフィール

– ピアノとの出会い

私が生まれて間もなく父が香港に転勤になり、私は1歳から6歳半まで香港で育つことになりました。 私の一番最初の記憶は香港へ向かう飛行機内のことです。 香港では広東語と英語と日本語の幼稚園へ少しずつ通いました。 幼稚園のことよりもう少しはっきり覚えているのはピアノのことです。 大学の合唱サークルで知り合った私の両親は香港に赴任した後もバッハクワイアで歌ったり、二人でよくレコードを聴いたりしていました。 マンションには小さなアップライトのピアノがあって、私は3歳になる前からそのピアノでよく遊ぶようになっていました。 3歳半でレッスンを受け始める頃にはもう既に知っている童謡等を左手の伴奏付きで弾いていたそうです。 録音にも異常に興味があって、父に録音の仕方を教えてもらって以来、自分のピアノや歌を次から次へと録音しました。 ただテープのラベルがまだ読めずに、手当たり次第テープに録音したので、今でも両親のカセットテープは途中でよく3歳の私の声やピアノに中断されます。

– 小学生時代

日本に6歳半で帰国してから13歳で渡米するまでピアノは続けていましたが、むしろ物を書くことや、友達を集めて自作自演の劇を学校で発表したりするほうに興味がありました。 私のピアノの先生や家族はなんとなく私が音大に進むものと疑わなかった様ですが、あのまま日本に滞在していたら音楽を続けていたかどうか分かりません。 日本でのクラシック音楽に対する視点というのは、個人的な音楽の解釈より伝統にはるかに重点を置いていて、私には少々窮屈だったのです。 自分の想像力に任せて自由気ままに自己主張したかった私は、楽譜に忠実に、作曲家の意図を汲むために勉強して、自分を作曲家のメッセンジャーとすることは本当は少しつまらなかったのです。

– アメリカで

何故アメリカに来たことでそれが変わったのかと言うのは少々複雑なのですが、一つはジュリアード音楽院のプレカレッジを受かって自信がついたのと、もう一つはコミュニケーションの全てを不自由な英語に頼らなければいけなくなって、初めて「言語」と言うものの不完全さに気が付き、 言葉なしで人と人をつなげられる音楽の価値を再考したくなったと言うことがあります。 それから、個人主義のアメリカでは演奏家の感情表現、個人的解釈がとても尊重されていて、ピアノを弾くことが日本にいたときよりずっとずっと楽しくなったのも理由の一つだったと思います。 渡米2年目に、ジュリアード音楽院から優秀なピアノの学生に授与される「レルソン奨学金」を受け取りました。 その半年後父が日本の本社に戻ることになりました。 一人でもアメリカに残ることについてはあまり迷いませんでした。 それ以外には可能性が考えられなかったからです。 家族が帰国してから高校卒業まで、私はアメリカ人家庭に引き取られ家族同様に可愛がってもらいました。 その老夫婦とは今でも1週間に一回は必ず連絡をとっています。

– 演奏活動の開始

両親が帰国した頃から私は少しずつすんでいる地域のコミュニティーオーケストラとコンチェルトを弾いたり、地域の美術館やジュリアードで独奏会を開いたりし始めました。 マンハッタン音楽大学進学後2年目には学校から選ばれてボリビア・ナショナル・オーケストラとボリビア国内3都市をコンサートツアーしたりもしました。 大学卒業後、ニューヨーク総合大学で修士課程に進む前に1年間休みを取り、その頃から本格的に演奏旅行を始めました。 旧東ドイツの街でネオナチに悩まされたり、アメリカのモンタナ州の家がポツポツと山と谷の間に点在するような田舎で村の歴史上初のクラシックコンサートを教会で開いたり、戦争が始まる直前のマケドニアでマケドニア人のフルート奏者の友人とジョイントリサイタルをしたり、ゲストアーティストとして豪華客船に乗り込み1週間に1度の独奏会と引き換えにギリシャ、トルコ、イスラエル、エジプト、ポルトガル、フランス等、ヨーロッパの国々を旅したりしました。他にもハンガリー、ポーランド、イタリアに最近演奏旅行しましたし、アメリカ国内では本当に沢山の州を旅する機会に恵まれました。

– 日本で

日本でも2001年から若手演奏家を応援するボランティアグループのおかげで、毎年リサイタルを開けるようになりました。 住んだ年数はもうアメリカの方が長くなりましたが、日本はやはり私の大切な母国です。 日本で聴いていただいて受け容れられた時、やはり格別な喜びを感じます。 一人でも沢山の方に私のピアノを聴いていただけたら、と願っています。