2003

私、過去と現在

 2001年1月2日と、2月21日にスタジオで録った自分の演奏を見た。  ショックだったのは、最近私がずっと探し求めているもの(個性と言ってしまえばそれまでだが、音楽における遊び心、自由、自分)を当時の私は自覚もせずに持っていた、と言う事だ。まるで、「青い鳥ははじめからずっとおうちにいたんだ!」と発見したチルチルとミチルの気持ちだが、さて私はこれからどうやって「おうち」に帰ろうか...  自覚しない自由さ、遊び心と言うのは、子供の特権だと思う。成長過程において、系統立てて物事、さらに自分、を把握しようとする段階で、人はこれ等の物を失くしていくのではないか。自分のコントロールできない物を怖いと思う気持ち、更に周囲から受け入れられたい、分かってほしいという、たぶん人間特有の社会性から来る欲求が、安定性、一貫性を追求させる。まさに、あのビデオからこっち、三年間の私の練習の方向性だ。そして私は今、行き詰ったと感じて、苦しい。  先に進むか、前に戻るか。  私が今日見た二本のビデオの日付の重要性というのは、それがある転機を前後しているからだ。2001年の1月中旬私は始めてヨーロッパに演奏旅行に行った。怖かったのは西洋音楽発祥地―「本場」―で演奏すると言う事、着いて2日目から3晩連続でリハーサルの時間もぎりぎりで、2つのコンチェルトと独奏会を演奏すると言うハードスケジュールだった事など色々あったが、私は失敗した。2晩目のコンチェルトで止まってしまったのだ。歯が抜け落ちるかと思うような、恐怖だった。3晩目の独奏会をほとんど睡眠ゼロで挑まなくてはいけなくて、私は死刑になるほうがまだ怖くないと思った。3晩目も散々だった。  私は真剣に反省した―何がいけなかったのか―。私生活において、それまで住んでいたアパートから引越し、付き合っていた人と別れ、仕事を減らし、練習時間を増やした。催眠術を使うセラピストを訪ね、ステージフライト対処法について、アドバイスを求めた。  音楽においては、其れまで学校で試験にパスする為だけ勉強し、実際は馬鹿にして“自分の音楽”には関係ないと思っていた曲の構造分析を初めて切実な必要性を感じて試み、演奏中集中を散らす可能性を持つミスタッチを削除しようと努力する事を始め、どうやってより集中できるのかと言う事を考え、演奏中何をいつどのように考えているべきなのか、鍵盤、あるいは手の何所をいつ見、どのような指の角度、勢いで弾き、何をいつどのように聴き、曲の何所でどのように感じるべきかと言う事まで細かく把握しようとした。そうやって、起こった事をきっかけにして前進しようと頑張って来た。  1月2日のビデオの自分が危なっかしげでも遊び心を持ち、2月21日の頬肉の落ちた自分に安定性があっても、自由さを既に失い始めていると感じるのは、私がその二本のビデオの間にあった転機を意識しすぎているからだろうか。  話が前後するが、私がまだ大学ほやほや一年生だった頃、ある有名なテナーが、公開レッスンをしに来た。この人が「こういう音色を作るために体のここをこう曲げ、この筋肉を使い、のどをこうして、息をこうして…と考えるのではなく、どういう音がほしいのかと言う事を、明確に、強く、想えば、体はそのイメージを実現する為に必要な事を自動的にし、ついて来るものだ」と言った時、私は自分の主張の裏づけが取れた様に感じ、しばらくその人の言った事をしつこく引用した。当時の私は、“個性的”とほめられるか、“慣習破り”と叱られるかのどちらかだった。一度、私のバッハとショパンが同じに聞こえると指摘されたとき、さすがに一瞬恥ずかしかったがそうなったらもうやけくそで、「当たり前だ、同じ人間が弾いているんだから」と、即やり返した。楽譜を無視し、音楽理論や、演奏スタイル・美的感覚の歴史においての変化など、音楽を系統立てて勉強することは自分の着想の妨げになるとで思い、徹底的に勘で弾いた。音楽は自分の自己表現の手段にすぎない、と主張した。練習はつまらなかったので、さっさと暗譜し、楽譜たてに本を置いて、小説を読みながら練習した。録音を聞く事は、「自分の音楽に迷いが出る」のでせず、演奏がある日は、「インスピレーションを得る為」演奏する作曲家の国の映画を見てすごしたりした。  多分、私は音楽に興味がなかったのだ。13の時、父の転勤でNY に移住し、英語で勉強、生活することを強いられる事がなければ、私は物書きか役者を目指したと思う。いや、NYに来てたって、ジュリアードの予備校の入試に思わず受かることがなければ、まず、16の時父に帰国辞令が出た後も一人でアメリカに残るなんて事はありえなかったし、もしかしたらピアノを続ける事すらしていなかったかもしれない。  しかし、ジュリアードには、受かった。なんだか色々賞まで頂いてしまったりした。英語が喋れなかったことで、他に置いてことごとく自信喪失した私は、ピアノに自分を託したと思う。だから余計私は、レッスンで叱られれば破門になるまでつたない英語で口答えた。そうして最終的に落ち着く先生はいつも私の慣習破りを才能と解釈してくれ、試験で落ちれば「試験官はあなたの才能に嫉妬したんだ」と(本当にそう信じていたのか、それとも単に慰めていたのか)まで言ってくれる人たちだった。私は、試験やオーディションに何回も落ちたと言う事実より、そういってくれる先生たちの言葉を信じる選択を無意識のうちにずっとしていた。そうして得た自信でもって怖い物知らずでしたチャレンジのいくつかが実を結び、私は今、ピアノを演奏する事で、NYで食べている。 前に戻るか、先に進むか。  転機の後、私の練習時間と不安・焦燥感が比例して増えていったのは、前に戻る自信もなく、先に進む決意もせず、足踏みしながら、ただ職人的に技術向上することに、逃げたからだと思う。理想がはっきり見えなかったし、しかし理想をはっきり追求する努力を決断する勇気を出さないまま、技術的な次の一歩だけを見て、ここまで来てしまって今、切実にその決断力が必要と感じる。もう次の一歩だけでは、足を前に踏み出せない。その意義を見出すのにあまりに苦労する。  28になった私が、17の自分と同じ状態に戻る事、過去を反故にする事など不可能であることを承知の上で、私が「前に戻る」とあえて言うのは、社会に置いて、特権的に「芸術家」に許されている幼児の様な非常識性、不安定さを伴う自由さ、いつまでも終わらない青春のような生活態度にもう一度自分を甘んじなおす事を言っているつもりだ。音楽においても、人生態度に置いてもあまり根拠がなくても自由な発想、自発性を好しとし、自分を疑う事をせずに、自分を追求して表現する事をそのまま人類愛とつなげて考える天真爛漫さを保つ。やめて久しい、言葉で自分を表現しその過程で自分を知ることを、音楽においての理想追求に置いても応用し、音楽についてもっと直接的な、散文のような物を書いてみる。緻密な、スポーツ選手のような肉体分析を伴う単にミスタッチを減らし、より早く、より効果的に動く研究のような練習をやめ、改めて、音楽に自分の想像力を託すことを、やってみる。  そして、先に進むと言うとき私が意味するのは、このまま中毒のように、あるいは現実逃避のように練習時間を自分の不安の増加に比例して増やし続ける事ではなく、理想を自分の外に求める謙虚さを持つ、と言う事だ。目を凝らせば凝らすほど、焦点がぼけるような不安を、練習の過程で覚え始めたのは、練習の仕方が悪かったのではなく、ただ単に自分の理想が明確でなかったからだけではないか。音楽的理想が明確でないから、勢い練習もミスタッチを減らしたり、指を鍛えたりと技術的になる。そして、その理想の不明確さと言うのは、自分の音楽の勉強においての怠慢の結果であって、それから逃れる為には自分の理想を熟知してそのまま演奏に置いて現実化することに成功した大家達の音楽を聴き、さらに文献を読む事でそれぞれの音楽が書かれた当時の審美観、それからその作曲家自身の理想を知ろうとする努力が必要なのではないか。 言葉を変えれば、これからの自分の音楽を自分の中に探すか、外に求めるか、だ。  どちらの選択肢にも、自分を委ねるのは怖かった。「前に戻る」のは、自分が打ち解けた領域に戻るわけだがしかし、最初に書いた様に、自覚しない遊び心というのは、子供の特権と考えている自分を否定しきれなかったし、28になった自分が一度自覚してしまった自意識をかなぐり捨てて「子供」に戻りきれるか、確信ももてなかった。しかし、「先に進む」と言う選択肢では、子供のときに遠い世界に感じた、遺伝子的にも実際に遠い、自分より大きな、西洋音楽と言うものとその軽く300年を越す歴史の中に自分を埋めてしまうような、圧倒的なイメージがあった。  情報多様化の今日だ。今までは入手不可能だったものを前にするとき、反射神経的反応の一般はそれらの全てを飲み込み、理解し、自分の物にしようと言う好奇心、義務感、あるいは、強迫観念だろう。しかし、時には矛盾し、時には不可解な膨大な量のデータを集めて、その全てを、考慮、解釈、消化し自分を見失わない事が、人間的に、いや、この際私に、可能なのだろうか。録音の技術が発明されて間もない頃の演奏家達、さらにピアニストの黄金時代とされた20世紀前半の演奏家達に見られる、きらびやかな個性、遊び心というのが、現在のピアニスト一般に無いのは、「歴史的正確さ」が重要視され始めてこちら、自分を反映する隙間を残さないほどピアニストが皆、知識とそのプレッシャーにがんじがらめになっているからではないのか。大体、「歴史的正確さ」とは、芸術家、そしてその中でも特に聴衆と音楽を通じて時間を共にする演奏家にとって、どれだけ大事であるべきなのか。時代背景の把握を通じて、作曲家の意図したところに出来るだけ近い音楽を再現しよう、と言うのが、このごろの演奏家の一般の姿勢だ。しかし、「その作曲家の意図」を汲もうとはかるときみんななぜ、その時代背景をそこまで重要視するのか。違う時代に属した人間として作曲家を勉強するのではなく、人間としての作曲家という意味で共感するのじゃ、だめなのか。21世紀において、幾世紀か前に書かれた音楽を謀体に現在の私達の審美観を投影するのじゃ、だめなのか。大体、人間と言う物は、時空をへだてて、それほどまでに変わるものか。現に私達は、50年前の大家の演奏を―歴史的正確さが演奏家に求められる前の演奏を―、時には今現在活躍中の若手の演奏よりも、美しいと思うではないか。  更に、録音技術の進歩によって、生演奏ならまず不可能なテンポの速い正確な録音を当たり前として何の感慨も無く聞いてしまう耳をつくられ、その副作用として、聴衆も演奏家自身も、機械的な完璧さを生演奏にも求めるようになり、結果、肉体的超越、そして一貫した機械的正確さを求めることも、遊び心が聞こえなくなる一因だと思う。そして、ありとあらゆる、歴史的、そして現在進行形の演奏、そして演奏家の録音の只中に置かれて、相対評価を無視して、自分を見つけようとする事は、大変難しい。大量な情報の放出の副作用である、すべてにおいての平均化もまた、がんじがらめの原因のひとつだろう。 じゃあ、前に戻るのか。  しかしもう一方で、自分と言うのは、相対に置いてのみ、定義できる物なのかも知れない、とも思う。絶対的な自分と言う物は無く、一定の環境に置いてのみ、「自分」と言うのは確定し得るものなのか。好みと言うのは、比較検討によって発見していく物なのか。だとしたら、理論的にはその「環境」にまつわる情報は細かければ、細かいほど、比較検討の対象は多ければ多いほど、「自分」をより極められるはずだ。そしてもし、「自分」が相対においてのみ発見できるものならば、私は自分を確立して行くプロセスに置いて、かなり遅れをとっているはずだ。それで、だから、苦しいのかもしれない。私は、意識的に今までかなりの努力をして、自分の世界を狭めようとしてきた。音楽に限らず、すべてにおいて、だ。人生におけるほとんどの選択を消去法でして来た自分を私は好ましいと思って見て来たわけではない。しかし、そうしてここまで来ざるを得なかったのは、自分の好みを確立していくプロセスを怠ったから、そして、そうしてここまで来れたのは、選択の余地が消去法で賄えるほどいつも狭かったから、では無いか。  18の誕生日、丁度10年前に書いた「独立宣言」で社会の一般常識から確立した自分独自の感性と価値観を築き上げる、と言った趣旨のことを書いた。なぜ、私がそういう考え方をするに到ったかということを客観的に分析してみれば、そのころの私は環境適応に苦しんでいたと思う。英語が思うように喋れなかった事、周りの日本人社会は日本の大学を卒業して後留学してくる年上がほとんどだった事、それによって、社交場の自己像を自分の好きな様に確定するのが非常に困難だった事、更に17で、アメリカの、しかもマンハッタンでのただでさえ世間知らずだった私の一人暮らし ―そういうこと全てを総合して、私は、もともとが「常識」を持たない存在だったのだ。ただ、プライドが、「常識を持ち合わせていない人間」、では無く、「あえて持たない人間」であろうとする事を強いたのだと思う。  何にせよ、私は宣言した事は実行した。言葉そのものが価値判断を含蓄することに気づいてからは、言葉を使わないようにしようとした。実際は三日坊主で終わったが、黙行したり、「言葉を使わずに考える」と言う禅僧のような事を試みたりした。社交を見下し、物欲を見下し、世捨て人のように生活したい、と思った。ただ、私が間違っていたかもしれないのは、「自分を見極める」ために、余分な物を削っていく消去法に一生懸命になるあまり、その趣旨まで忘れてしまっていた事だ。気がつけば私は今、自分の考えを明確に表現する術さえないがために、自分の中で自分の感性を把握する事にすら、困難を覚えている。そしてその状態がそのまま私の音楽に反映している。 苦しい。苦しくなく、なりたい。じゃあ、どうなりたいのか。どうすれば、苦しくなくなるのか。  暗中模索の自己検閲無しに、自由に表現する事を自分に許す、自分に対する肯定、信念、が欲しい。自分を表現したい。自分が知覚するままに世界を表現し、それを人に聞いてもらいたい。人に自分を確認して欲しい。 先に引用したテナーの言葉は「前」に属するのか、「先」に属するのか。  自意識の発達と言う難所を通過せずに自由に子供時代の延長線の様に自己表現をし続けられる芸術家と言うのが、「天才」なのかもしれない。私は、そうじゃなかった。だからもう、「前」には戻れない。でも、難所でひしゃげて、ギブアップするほど、やわでも、一筋縄でもない。私は、もう一度子供の様に自由に、しかし今度は大人の自覚をもって自己表現できるところまで行きたい。行き着けると信じる。  ひと夏、短い期間レッスンを乞うた、神童といわれた事のある女流ピアニストが、当時二十歳だった私の慣習破りを聞いて、言ってくれた事を思い出す。「自分にしか興味が持てない期間は、思い切り自分を追及しなさい。あなたは、そのうち自分に飽きるでしょう。その時あなたは、自然に外からの刺激を求めて、勉強したくなるはずです」。  そうなんだ。行き詰まったのは、苦しいのは、自分に飽きたからなんだ。 私はもう、自分の日常的感性だけに魅せられて触発され得る時期はもう卒業した、大人なんだ。それを悲観的に、「感受性が鈍った」と感じるか、それとも逆に「より大きな物を感じ取る知覚力がついた」ととるかは、私次第だ。私には今、世界を、自分を失わずに知覚し、自分に取り入れるか拒むか判断するだけの成熟さと、一個の人間としての確実な価値観がある。苦しくなってしまったのは、子供のときからの習い性で、外界を締め出して自分を守ろうとしたからで、大人になった私はでももう、一人遊びはつまらないんだ。自給自足は、限界があった。勉強しよう。人の音楽、世界観、人生観にも触れよう。受けた刺激に関する散文も大いに書こう。外界から独立して得る自由と言うのはもう、大人になった私には無意味なんだ。人より長い「子供時代」を私は大いに満喫した。「子供時代」を長引かせる努力もした。もう、卒業だ。  世界を貪欲に吸収してみよう。そして、自分と自分の音楽を大きくしよう。吸収して、不純物が混ざる可能性を子供の私は、怖がった。でももう、このまま行っても窒息するだけだ。私は、先に進むぞ。そして、それで自分を見失うほど、大人の私はもうやわじゃない。  偶然、先に触れた女流ピアニストに、最近縁あって再会した。来週レッスンを受ける。

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自問自答

 私は伴奏の仕事は簡単だと感じる。伴奏が簡単というより、二人以上で弾く事が簡単なのかな。 一人で音楽を全て創る、と言うのはたとえその音楽が単旋律から成っていたとしても、二人以上で弾くより難しい。これが何故かというと、舞台で独りで聴衆に向かう事や、暗譜で弾くという表面的な独奏の難しさとは別にもっと深いに有ると思う。それはきっとリズムじゃないかな。学校で生徒一人を立たせて朗読させるのと、クラス全員で同じものを一緒に朗読するのとではテンポが変わる。 メロディーをソプラノがソロで歌った後、コーラスが同じメロディーを歌ってもやっぱりリズムが違う。否、リズムは同じだが、でもリズム感が変わる。 何が変わるのか。  究極的に、音楽が目的とする所は時間と空間を共有しているという実感、つまり共感だと思う。 その目的をどう果たすか──呼吸と心拍をリズムとフレーズによって操作し、統一する事によってではないか。だから一人で、皆が呼吸と心拍を一緒に合わせる事が出来るリズムを創るより、二人、三人、四人、と集まって「いっせーのせ」で一緒に息をして一緒に創ったリズムの方が、聴衆も乗り易いのは当たり前だ。演奏家としても一人でホール一杯の人々の呼吸と心拍を操作するより、共演者と呼吸を合わせる事で聴衆も一緒に乗ってくれる方がよほど楽だ。だとしたら、独奏の意義は何か。  音楽学者、ドブルド・フランシス・トビーが「協奏曲が感動をさそうのは個人対大衆という古典的な劇的構図を描くからだ」と書いたのを読んだ。  独白劇は入り込むのが難しい。でも、よい独白劇はとても感動する。何故か。「大衆」を成す一人一人が、自分の事を「個人」だとおもっているから、そして更にいつも何処かで「独り」だと思っているからではないか、人は「独り」という不安をぬぐいたくて「共感」に安心を求める。でも「共感」は束の間で、「孤独」は持続する。だから「孤独感」を「共感」する事が一番痛切な「共感」で、そこに独奏、独白劇、そして協奏曲の意義が有るのではないか。  私はやはり独奏家でありたい。 独奏家であるよりも、ピアニストであるよりも、演奏家であるよりも先に、音楽家でありたいが、独奏が好きだ。

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ソロとアンサンブル

 ニューヨークに帰って、今日で一週間になりました。 日毎にぐんぐん秋めいています。今朝は公園で銀杏の実が地面に散らばってあの特有な匂いを放っているのを見つけました。登校する子供達ももう皆カーディガンやジャンパーを重ね着しています。日本は如何ですか?  9月20日の土曜日にジュリアードのリサイタルホールでクラリネットのS教授の伴奏をしました。この話は私が日本に帰郷中に来たもので、楽譜を日本まで郵送してもらってはあったものの、怠けて日本では殆ど譜を見る事をせず、帰りの飛行機で読もうと思っていたのに機内食を食べそこねるほど爆睡してしまい、ちょっと心配していたのですがうまくいき、大変楽しく弾けました。  偶然これもアメリカの作曲家を並べたプログラムで、バーンスタインの「クラリネットソナタ」がコープランドのピアノソナタに大変似ているのを発見したのも面白かったです。それからエリック・エウェイゼンと言う、これもジュリアード教授の作曲家の「クラリネットとピアノの為のバラード」も弾きました。これは五音階(ペンタトニック)を沢山使った一寸印象派、一寸ニューエイジと言った風の曲です。とてもきれいな曲で気持ちよく弾きました。残りのプログラムは、アレック・テンプルトンという、ベニー・グッドマンの為に働いたピアニスト/作曲家(盲人だったそうです)のちょっとふざけたジャズ風の「ポケット・サイズ・ソナタ」とバビンの「ヒランデールのワルツ変奏曲」でした。  伴奏はやはり気楽で簡単です。  伴奏が簡単というより、二人以上で弾く事が簡単なのかな。一人で音楽を全て創る、と言うのはたとえその音楽が単旋律から成っていたとしても、二人以上で弾くより難しい。これが何故かというと、舞台で独りで聴衆に向かう事や、暗譜で弾くという表面的な独奏の難しさとは別にもっと深い所に有ると思う。 それはきっとリズムじゃないかな。  学校で生徒一人を立たせて朗読させるのと、クラス全員で同じものを一緒に朗読するのとではテンポが変わる。メロディーをソプラノがソロで歌った後、コーラスが同じメロディーを歌ってもやっぱりリズムが違う。否、リズムは同じだが、でもリズム感が変わる。  何が変わるのか  究極的に、音楽が目的とする所は時間と空間を共有しているという実感、つまり共感だと思う。その目的をどう果たすか ─ 呼吸と心拍をリズムとフレーズによって操作し、統一する事によってではないか。だから一人で、皆が呼吸と心拍を一緒に合わせる事が出来るリズムを創るより、二人、三人、四人、と集まって「いっせーのせ」で一緒に息をして一緒に創ったリズムの方が、聴衆も乗り易いのは当たり前だ。演奏家としても一人でホール一杯の人々の呼吸と心拍を操作するより、共演者と呼吸を合わせる事で聴衆も一緒に乗ってくれる方がよほど楽だ。だとしたら、独奏の意義は何か。  音楽学者、ドブルド・フランシス・トビーが「協奏曲が感動をさそうのは個人対大衆という古典的な劇的構図を描くからだ」と書いたのを読んだ。  独白劇は入り込むのが難しい。でも、よい独白劇はとても感動する。何故か。「大衆」を成す一人一人が、自分の事を「個人」だとおもっているから、そして更にいつも何処かで「独り」だと思っているからではないか、人は「独り」という不安をぬぐいたくて「共感」に安心を求める。でも「共感」は束の間で、「孤独」は持続する。だから「孤独感」を「共感」する事が一番痛切な「共感」で、そこに独奏、独白劇、そして協奏曲の意義が有るのではないか。  私はやはり独奏家でありたい。 独奏家であるよりも、ピアニストであるよりも、演奏家であるよりも先に、音楽家でありたいが、独奏が好きだ。

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私が演奏会で喋る訳

 個人的な話から始めさせてもらえれば、私がピアノを弾くのは、ピアノ技巧や音楽を極める為ではない。私がピアノを弾くのは、人が好きだから、です。自分のことを他人に分かってもらいたい。私が弾く曲を書くに至らしめた作曲家の感情、状態に近づいてみたい。人の為に弾き、その人の感性に触れてみたい。時間、場所、そしてある聴覚的(そして願わくはそれ以上の)体験を共にする事によって“共感”を試みたい。そうして、お互い(貴方と私、です)の確認をし合いたい。  究極的には、だから私にとって音楽は手段で、必要と有れば手段を犠牲にしても、目的達成を試みる。例えば、西洋音楽をやっている以上、伝統継承はその意義の大きな一部だ。しかし、250年前に書かれた曲を当時演奏された通り仮に復元し得たとしても、作曲家のメッセージが、当時の聴衆に伝わったのと同じインパクトで今日の私達に伝わるだろうか。私は復元よりも、メッセージに忠実であろうと努めたい。そしてメッセージは、伝わらなければ意味が無い。メッセージをより良く伝える為に、少なくとも今の私には、喋る事が必要だ。  理由の一つとしては、演奏家と聴衆の距離を縮めたい、という事がある。イメージ的にクラシックは御堅い。構えられては、伝わるメッセージも伝わらない。固定観念も邪魔だ。リラックスして感受性を楽にするお手伝いができるならば、私の下手な日本語を(書くほうが好きです)披露する位何でも無い。又、自分を一個の人間として出す事によって、私個人、更に音楽に対して、親近感を持って頂きたい。  もう一つは、私自身、音楽を聞く、という事の難しさを痛感しているので、少しでもそのお手伝いをしたい、と思う気持ちだ。 実際、音楽に近づく過程として、弾く方が聴くより、ずっと簡単だと思う。一曲を弾く為に演奏家は何百時間を費やし、譜を読み、音を習得し、曲が書かれるにいたった背景を文献で調べ、録音を聴き、あらゆる角度から、曲を検討する。ところが聴衆は、その曲を、少なくとも私の演奏で聴くのは、この場限り!私は自分が勉強して得た発見を分かち合いたいという気持ちと、聴衆に課せられた荷の重さへの思いで、喋らずには居れなくなる。  聴く、という事の難しさについて、もう少し言えば、曲が書かれた当時の常識、作曲家と聴衆の間に当然あった常識が、現在の私達には無い事から来るギャップと言うのが、一つの要因だ。例えばバッハは大変信仰深く、その作曲は全て神への捧げものとしていた。“神を知らずにバッハの音楽は分かり得ない”、とあるクリスチャンのオルガニストが言ったそうだ。しかし逆に、無宗教の私がバッハの音楽を通じて、“神”を感覚的に知る事だって有り得ると思う。そして更に、バッハが信仰深かったという事を知識として持っていれば、この感覚は、潜在意識のレベルを超えて、認識され得る。見ている物が見えないという事、指摘されて初めて気がつく、という事は誰にでもあることだ。(例えば、チルチルとミチルの青い鳥や、鼻の上の老眼鏡など…)  又、私は、喋る事によって聴衆に生演奏ならではの、聴衆と演奏家の間のコミュニケーションに積極的に参加して頂くよう、誘いかけているつもりだ。コミュニケーションと言うのは、何も言葉のやりとりだけではない。演奏していて、聴衆から受け取る“気”というのは物凄く、それによって演奏と言うのはその都度大きく変わる。舞台に出て受ける拍手の調子、その時見る一人一人の表情、最初の一音が出るまでの静寂。。。そして、曲が始まってから演奏家が感じ取る聴衆の反応に至っては、言葉で言い表す事の難しい、テレパシー的な強力な物だ。ところが、テレビの前で完全に受身の状態で座っている事になれている今日の聴衆の中には、舞台の上の人間が生身であるという事をアピールしなければコミュニケーションが成り立たない聴衆も過去に有った。これは、私の存在感や気迫、又は演奏にも足りない物があったと思う。しかし、喋った演奏会で私がコミュニケーションの欠如を感じた事は無い。  だから、私は喋りたい。私が喋りたいのは、音楽が好きでたまらないから、そうして、その好きな音楽を共有する事で、人とつながり、人をつなげる実感が欲しいから、だ。

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これから

 「活字離れ」が話題にもならなくなった。私には「音楽離れ」もそれに比例する形で進んでいるように思われる。音楽は在ることは在る。ウォークマン、ラジオ、テレビ、いたる所で鳴るBGM・・・・音楽は有り余るほど在るが、しかし、積極的に音楽を聴く姿勢、音楽に何かを求める姿勢というのは人の中から消えつつあるのではないか?マスメディアが浸透する世の中で、人が知的な娯楽に受身な姿勢をとりたがるようになったのは、私は悲しいことだと思う。  私はそういう人達が眼を覚ます意欲を覚えるきっかけを与えるような演奏家になりたい。テレビやコンピューターの前で催眠術にかかったように、次から次へと情報を飲み込むのは実はとても退屈なんじゃないか・・・・生の演奏に触れて一人でも多くの人にそう思ってもらえれば本望だ。   人間にとって一番楽しいのは他の人間と触れ合い、自身を分かち合うことだと思う。その過程に機械をはさむと人間の人間らしさが薄れてくる気がする。だから私は演奏がしたい。録音も良いが、旅行して色々な所で、色々な聴衆の為に演奏し、自分を知ってもらい、又人を知りたい。そして特にこれからどんなテクノロジーの発展を目の当たりにするかもしれない子供達の為に弾きたい。来シーズンからアメリカの各地で子供の為の演奏会を行う。  いつか日本でも同じ事がしたい。

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