最近は、プログラムを用意せずに演奏する事が多くなりました。理由はいくつかあります。
個人的な理由
- ⓵『十八番』と言える持ち曲が多くなった。
- ②ピアノに座って有名処を黙々と弾く『ピアノ職人』ではなく、ピアノから曲やトークを通じてその日その場のお客様との特別な時空を創り上げる「あーちすと」としての自覚が確立した。お客様の顔ぶれや表情、それぞれの言葉や曲に対する反応に対応しながら次の曲や話題を決めたいのです。その日の天気やニュースなどで曲を決める事もあります。子供がいるか、高齢者が多いかでも演目は変わります。
- ③完璧に調整・調律されたフルコンと最高な音響の演奏会場で弾くことは最近は滅多にないので、その日伺った会場のピアノや音響を踏まえて、その短所を補い、長所を生かす曲や解釈で弾きたい、という事もあります。
音楽史を考察した上での印刷されたプログラムに対する疑問
西洋音楽に限らず、人間の営みとしての音楽という現象の歴史を考察した時、印刷され前もって準備されたプログラムという物の陰影が浮き彫りになります。プログラムというものが役に立つためにはいくつかの条件が必要となります。例えば⓵ 紙やインクや印刷技術が安値で大量にある事。⓶ 聴衆の過半数が字を読め、プログラムで使用されている言語や語彙を理解し、意味を見出す素養がある事。更に演奏される音楽が、⓷ 誰でも聞けば分かる流行歌だけでなく、作曲家や題名や作曲年月など詳細を書き記せばそれだけ有難みが増す大層な物であること。(ちなみに、欧米の演奏会に於けるプログラムの歴史は、飲食店に於けるメニューの歴史(フランスで18世紀半ばが発祥:ただし中国では12世紀位からあったし、貴族の宴会などでは紀元前からあった)と平行して考察する事ができます。これも面白いです。)
しかし、特に⓷を考察した時に、プログラムというのはただ単に聴衆に情報を伝えることを目的とした親切なものではなく、むしろ先入観を植え付ける事で、提供している体験の価値を向上させるマーケティング効果がある事が分かります。「裸の王様」現象と言っても良いかも知れません。「旋律も和声進行もはっきりしない音楽をやたらと極端なテンポや音の密度の濃淡のコントラストでグダグダと45分もピアニストの超絶技巧を酷使する曲」とも描写できる曲でも、一回プログラムに「ベートーヴェン後期の最高傑作。数多いピアノ曲の中でも特筆するべき大曲かつ難曲。作品106『ハンマークラヴィア』ソナタ)と印刷してしまえば、いかに退屈に感じてもひたすらありがたがって拍手してみせるしかない。プログラムの前宣伝に対して、後付けではありますが「評論」というのも同じような効果があります。要するに「言ったもん勝ち」です。言葉の方が体験や主観より重視される近代の現象です。
一人一人の受け取り方よりも、「こう考えこう感じるのが正しいのですよ」というマニュアル、とも解釈できる演奏会プログラム。
マキコの幼少時体験
ピアニストのくせに私がこんなへそ曲がりな事を言う様になったのは、記憶をたどれば小1の時のこんな体験があるのかも知れません。近所の音大生が「無料ピアノ教室体験」みたいなことを開いてくれました。私はすでに簡単なソナタ位弾いていたのですが、妹はまだ幼稚園の年中さんで、私は妹と妹の幼稚園のお友達のお供で付いていったのです。そのお兄さんは、幼児に分かるように音楽の説明をしてくれていました。そして、ある曲を弾いて「この曲にタイトルをつけてみよう!」と言ってくれたのです。ゆっくりとした、長調だけれども物悲しいような曲でした。弾き終えてお兄さんが「この曲にタイトルをつけるとしたら、どんなのが良いかな?」と言った時、当時3歳か4歳の妹が突然饒舌に喋り始めたのです。「あのね、夕焼けが真っ赤でね、カラスが『か~か~』って飛んでいてね...」私はびっくりして妹の横顔を見ていました。私より3歳年下の妹は、どちらかと言うと控えめでした。私はいつも「あんたが喋りすぎるからあやが喋れない!」と母に怒られるのを理不尽に感じていましたが、母にしてみれば私に押され気味の妹が心配だったのでしょう。その妹が曲に動かされて一生懸命喋っている…
結局お兄さんに「この曲は『夢』」というタイトルなんだよ」と教えてもらって、体験教室は終わりになってしまいました。今思えばシューマンの「トロイメライ(夢)」だったかも知れません。でも、私には「夢」というタイトルで妹の「真っ赤な夕焼けとカラスのカ~カ~」を否定してしまうのが、可哀想に感じたのです。初めから「この曲はかの有名な19世紀ドイツ人のシューマンが『夢』というタイトルを付けた有名な曲です」と言われていたら、妹には夕焼けの真っ赤は見えなかったかもしれない。カラスのカ~カ~は聞こえなかったかもしれない。そして妹が体験した世界に比べたら、シューマンがなんだ!19世紀のドイツロマン派がなんだ!トロイメライがなんだ!
...だからでしょうか?最近私は、こういう事をよくやっています。まず何の説明もせずに曲を演奏し、お客さんの感想を聞いて、その全てが素晴らしい!と肯定します。その後で、作曲家や時代の背景の説明とタイトルを説明してから同じ曲をもう一度弾き、「知識を持って曲の聞こえ方が変わりましたか?」と問いかけて、皆で話し合うのです。
プログラム弁護
ただ、こんな私でもプログラムも良いな~と思う事があります。それは、形見になる、という事です。演奏も、音楽会体験も、全て時間と共にしか存在できないものです。でもお家に持って帰って、再度目にする度にその日の演奏会場での体験や音楽に想いを馳せる事が出来る。ただそれは印刷されてプログラムでなくてはならないのか...?
7月と8月に横須賀と群馬で演奏します。
こんな事を考えているのは、日本での演奏会に向けてのプログラム情報を頼まれたからです。(書き出すべきなのか…)考えている内に、(そうだ、これをブログネタにして、主催者の方々に読んで頂こう!)と思い立ちました。
7月23日「8K サロン」で演奏と講義と公開レッスンの一日 (14時 イベント⓵ レクチャー「舞台でベストを発揮するための心得」 15時半 イベント② ピアノ公開レッスン 17時 夕食休憩 18時半 イベント⓷ 平田真希子ピアノ・リサイタル 8月6日(日)群馬県水上カルチャーセンターでの独奏会。 13時開場、13時半開演、15時半終演
お疲れ様です。
クラッシックの演奏会は、高名な演奏家から
高邁な芸術的演奏を拝聴させていただく有難いものだとの認識が今もあります。
他方、プログラムは、演奏後に読み確認し、そうだったのかと、音楽的理解を深めています。
何よりも、演奏が心地よかったか否かが最大の要点で、
それは、花火にも似て、夜空に大輪の花を咲かたと思うと、いつの間にか漆黒となっています。
人の生と同じで戻ることは叶いません。
コンサートは、一期一会なのです。
小川久男