音楽体験に於ける視覚と聴覚の分離、まとめ

本の序章と言うのは、大きな概念に満ちている。

その本その物が私の論文と密接な関係がなくとも、序章に開眼!することは良くある。

今夜読み始めている本の序章はあまりにも私の論文に直接関係ある概念が満載だった.

 

Deirdre Loughridge著、Haydn’s Sunrise, Beethoven’s Shadow: Audiovisual Culture and the Emergence of Musical Romanticism (2016)

 

この本は大体1760年から1810年の半世紀に於けるハイドンからベートーヴェンに象徴される音楽に対する美意識の移行をテーマにしている。この半世紀に、虫眼鏡、のぞきからくり、影絵劇、走馬燈などの視覚テクノロジーが浸透した。これ等は視覚だけでなく、間接的に聴覚への理解も助長し、さらに音楽に対する新しい見解を打ち出すきっかけとなった。ハイドンは自分が知覚するそのままの世界をいかに音世界で描写するか探求したが、ベートーヴェンに於いては感覚の延長、さらに感覚を超越した世界に何を想像するか、と言う音楽へと変わったのだ。(P.9)

 

ルネッサンスに印刷機が発明され、耳主体から目主体への文化へと移行した。しかし最近、現代社会を視覚的とする主流な味方に反して、聴覚も論理やテクノロジーに多大な影響を受けることを立証する研究が主にSound Studiesに於いて行われている。個人の主観的社会体験を視覚のみから見るのでは無く、それぞれの感覚を分けて検証する、と言うやり方は19世紀の生態学の確立から始まり、現代にいたっている。(P.9)

 

特にフランスのGrand Operaに代表されるオペラを始め、音楽と演劇を統合させた芸術分野に於いては、視覚と聴覚をそう簡単に分離して論じることは現実離れしていた。しかしドイツはその器楽音楽に於いて視覚に対する聴覚の優勢を論じた。これが後にドイツ・ロマン派に於ける音楽理想主義となるのだが、これには二つのルーツがある。

1.ルターの宗教改革などに代表される敬虔主義では聴覚が魂に通じる感覚としておもんじられた。

2.ロマン派の理想主義の哲学者たちが器楽音楽を言葉などの確固たる概念を超越した、それゆえにより『真実』に近い芸術の系統だ、としたこと。(P.10 )

 

1800年までにはすでに美学に於いて感覚の別離は主張されていた。純粋音楽、そして「音楽を聴くときは目を閉じる」と言うことへの奨励はここから始まっている。

1800 Johann Gottfried Herder “Spcae cannot be turned into time, time into space, the visible into audible, nore this into the visible; let none take on a foreign field, but let it rule in its own the more powerful, the more certain, the more noble.” (P. 12-13)

 

しかし同時に純粋な聴覚体験が呼び起こす視覚的創造の世界と言う事に関しても1799年にすでにWackenroderやTieckが言及している。(P. 14-15) 

 

経験主義のJean-Jacques Rousseauでさえ、絵は確固たるイメージを提供するが、音楽と詩に於けるイメージの世界は「想像力のみが限界を提供する」としている。(P.15) 

 

虫眼鏡、顕微鏡、望遠鏡…これらの視覚補助器が提供したものは、人間の知覚を超越した世界だった。これに走馬燈、万華鏡、のぞきからくりなどが、知覚を超越した世界への人間の想像力をかき立て、それが音楽にも影響したのだ。それが、ハイドンとベートーヴェンの音世界の違い、そして古典派とロマン主義の音楽観の違いなのだ。

 

そして私の論文にはこの様につなげられる。

古典派、そしてハイドンに於いて、楽譜が提供しているのは「曲作りのマニュアル」だった。このマニュアルはあまり精巧ではなく、もっと早い時代では楽器の指定も定かでなかったりしてすごくアバウトだった。「こんな感じでやってくれればこの様な曲で出来上がります」位の、まあいわば家伝料理のレシピ位なものだった。アレンジも可能で、むしろ奨励された。

 

でも、ベートーヴェン以降の楽譜はもっともっと指定が緻密で一々適確で、時にはその指示の全てに文字通りに従うのは人間の肉体的能力を完璧に超越したりしている。(例えばベートーヴェンのハンマークラヴィアの一楽章のメトロノームのテンポ指示に従って、全ての強弱やフレージングなどの指定を完璧にこなすことは、まあ無理である)しかし、これをこなせば、今までには人間にはアクセス不可能だった素晴らしい世界に到達できる可能性を、この楽譜は秘めている、とほのめかされる。しかしこの世界への到達をするためには、沢山の試練を乗り越えなければいけない。まず、曲を理解しなければいけない。そして肉体的に完璧に弾きこなせるようにしなければいけない。さらに全体像に於いて、それぞれのディーテールがどのようなパズルの一コマを演じているのか全て把握していなければいけない。そして作曲家の人生と心境の発展も理解しなければいけない。この曲に至るまでの音楽史も理解しなければいけない。使われている作曲技術も理解しなければいけない。そして初めて、このベートーヴェンと言う神格化された作曲家の聖なる曲が提示する、超世界に到達できるかもしれないよ~…

と、言うのがロマン派。ピアニストってマゾ!?

 

すぐには分からない所に『真実』が隠されている、と言う考え方が人間を掻き立てる。特に19世紀に於いて、色々な科学的事実が新しいテクノロジーによってどんどん明らかになる中、哲学や音楽に於いて『もっと耳を澄ませば』『もっと言葉を尽くせば』分かるものがあるはずだ、と言う考え方が、音楽を聴くときに目を閉じさせ、『瞬間、瞬間に聞こえている音楽=音楽ではなく、その構築に音楽の真髄がある!』と言わせたりするのだ。

 

 

 

 

 

 

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