イーロンマスクが先月末のインタビューで共感(エンパシー)を西洋文明の「根本的な弱さ」そして「欠陥」と発言し、物議を醸しています。
ここ数か月のアメリカ政府のおおっぴらな無情さは目に余ります。何万という連邦政府の雇用人や下請け業者が、プロ意識や生活や、満たしてきた社会のニーズも無碍に「効率化」のために解職。出身国での迫害などを恐れる亡命申請者を含む移民が、それでなくとも人手不足や施設老朽化や暴力事件などを訴える連邦刑務所に、収容され始めました。ウクライナ支援はもはやロシアのウクライナに対する国家主権の侵害や、戦争被害の人的救済とは無関係な、希少資源や重要鉱物をめぐる露骨な取引です。
イエール大学の心理学教授ポールブルームは「反共感論―社会はいかに判断を誤るか」(高橋洋翻訳, 2018)で、共感による道徳的判断は偏見に偏るため、多面性を持つ複雑な社会問題の動機としては危険だと主張しています。また、困難や苦痛に共感すると人は意欲を失う傾向があるとも指摘しています。
でも私は音楽家としてこう反論したい―共感というのは社会問題に対処する方法ではなく、人道の修行だと。他人の喜びや苦しみを自分のものとして感じるのは、「奉仕しあう」「傷つけあわない」という社会的合意の強化だと。他人への共感は、状況が違えば自分も相手と同じ状況にあったかもしれないという謙虚の認識だと。音楽も共感も同じく、時間や情や思いやりが必要—効率や利益とはかけ離れています。でも時間も情も思いやりもない人生はありえますか?
共感できない人は可哀そうです。周りの人間をその利用価値としてしか見れないのはどんなに寂しいことでしょう。そして自分の正当性が唯一無二の世界観はいかに退屈なことでしょう。最近のニュースを見ていると、触れたもの全てを金に変える力を授かった王様の逸話を思い出します。結局自分の食べ物も、愛娘さえも金に変わってしまう悲劇です。
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