小さい物も含めると、国際ピアノコンクールと称するものは毎年160以上ある、と言われている。
と、言うことは毎年なんらかの「国際コンクール優勝者」がその数だけ、
そして「国際コンクールの入賞者」がその数倍、出る訳である。
そして国際コンクールへの優勝が、キャリア成功の確約だった時代は終わってもう何十年。
私も個人的に何人も有名な国際コンクールの入賞者、優勝者を知っているが、
そして彼らの多くは2つ以上の入賞歴、優勝歴の持ち主だが、
演奏だけで生活をしている人はほとんどいないし、
多くが将来の経済不安、キャリア不安と共に生活している。
私にはコンクール歴が無い。
その正直な理由について、
コンクールの年齢制限を上回ってもう何年にもなる今だから、
記録として、書いておきたい。
私の学部生のころの恩師は熱血の、当時まだ若かったDavid Buechnerだった。ジーナ・バックアワー国際ピアノコンクールでは金賞を受賞した(1984年)が、チャイコフスキーでは銅賞(1986年)、エリザーべート王妃国際コンクール、リーズ、シドニー、ウィーンなどではすべて入賞に終わっている。私が師事を始めた1994年には、すでに自分の将来の演奏活動に不安を抱き、コンクールには幻滅していた。そんな時、生徒として入門した私に、彼は非常な期待を託した。
多分、彼は自分の過去がコウダッタラきっともっとうまく行ったに違いない、と言う全ての不満を自分の生徒に対する教育と接し方で挽回することで、自分も癒されようと思ったのだと思う。
彼の学部生のころの教師はすでにアル中がひどく進行していた、Beverage Websterだった。Baltimoreの田舎から都会で初めての一人暮らしを始めていた彼は、教師に親的な存在となることを期待していたが、それは到底無理な相談だった。だからだろう。自分の生徒たちを「家族」と呼び、金曜日の夜、準備した曲をそれぞれの生徒にお互いの前で弾かせる「ピアノ・クラス」には、毎週お菓子とワインを持って来て、クラスの後にはワインの講義をしてみたり、屋上でみんなで夕焼けを見たりした。楽しかった。
当時の彼の生徒に聞いてもらえればみんな同意してくれると思うけれど、私は特に目をかけてもらっていた。そんな私に、彼はコンクールを目指すことを奨励しなかった。代わりに、演奏の機会をできるだけ作ろうと奔走してくれた。そして、私にコンクールで課題曲になるような主流の有名な曲の勉強よりも、人が弾かない、珍しい曲や作曲家のレパートリーを目指すよう、選曲を勧めた。同時に、私を散歩に連れ出してマンハッタンの建築物を指さしながら色々な時代の建築様式や建築家について話しをしてくれたり、美術館に連れて行って絵画や彫刻を見せたり、またレインボールームなどの高級バーでカクテルを飲ませてみたり、兎に角教養を付けようと努力してくれた。彼が演奏旅行に出ると、自分の家の鍵を私に預け、自由に練習できるよう計らってくれた。私が出向くと、彼の留守中に見ておくべき映画傑作のヴィデオ・コレクションが机の上に並べてあった。「カサブランカ」や「市民ケーン」などの白黒映画や、「Betty Boop」などマイルス・デーヴィスのジャズが使ってある初代アニメ、Woody Allanなどの作品もあった。
Buechnerも自分のアイデンティティー問題など、大変だったと思う。その中で彼女は私に、当時同じマネージャーだった世界的ピアニスト、M.Uに連絡を取るように奨励したのである。
当時の私にとって内田光子は雲の上の人だった。手紙を出したときも冗談に思えて、彼女が本当に電話をかけてくれたときは息が止まるかと思った。私の録音を聴いて、アドヴァイスを頂く、と言う関係が2007年くらいまで続いた。その彼女も私がコンクールに出ることには反対だった。一度、チャイコフスキーに出たい、と言う私に向かって彼女は「なんで?賞金が欲しいの?お金だったら他に作る方法あるでしょう?あなたにこの前のチャイコフスキーの優勝者の名前が言える?」と立て続けに質問し「ああ、この前勝ったのは日本人でしたね.でも、名前を失念してしまいました」とお答えしたらば「私もです!」と電話の向こうで叫ばれた。彼女が私に勧めたのは、パブロ・カサルスのバッハ組曲や、ブリテンとピーター・ペア―スのペアが歌うシューベルトの「冬の旅」、シゲティのモーツァルトのヴァイオリン・ソナタや、エリック・クライバーの指揮など、過去の巨匠の録音を聴くことだった。しかも、ピアニストは聞くな!と言われた。そしてその後何回も私が送る演奏の録音の感想とアドヴァイスを聞かせてくれ、NYで演奏する際は私をリハーサルに呼んでくれたりした。そして、どんなに小さな演奏の機会でも兎に角場数を踏むことを進めてくれた。
そういう背景があったこともあり、私はコンクール出場よりも、どんなに小さくても演奏の機会を優先することを選び続けた。そしてありがたいことに、私は小さくても色々な演奏の機会に恵まれていた。でも、私はあの段階でコンクールに出てもダメだったと思う。私は正確さを誇るピアニストではない。ミスは多いし、当時は非常にあがり症で、プレッシャーに弱かった。それに、私は「比べてより優秀」は目指したくなかった。私は、自分の音楽がやりたい。ミスが多くても、自分の音楽性を追求したい。審査員の意向とか、それぞれのコンクールの過去の優勝者の傾向とか、他の出場者との比較とか、そういう事を計算して練習したくない。そして何よりも私はコンクールに幻滅したビュークナ―に聞かされ続けた、国際コンクール入賞者の多くを襲う「燃え尽き症候群」を恐れていた。
私は20代後半や30代前半でピークを迎え、そのまま燃え尽きてしまいたくない。
私は、毎日死ぬまでピアノの稽古を通じて、より良いピアニスト、音楽家、そして人間として
少しずつでも前進し続けたい。
死ぬときに一番、自分の音楽に誇りを持っている、そう言う人生を送りたい。
コンクールに出場することにも、それなりに良い点はあると思う。
まず、頑張る目標になる。
沢山レパートリーを学べる。
自分と同じような若いピアニストと一緒に数週間過ごす機会になる。
良くすれば、マネージャーなどの目に留まるかもしれない。
コンクールだって、一種の演奏の機会。
でも、私はその道を通ってこなかった。
それはもう過去のこと、そしてそれなりの考えがあって選択してきた自分の人生だ。
特に日本で、経歴をお送りするとき、そのことがいつもちょっと引っかかるので、
今日はそんな自分を叱咤激励するために、
初めて書き出してみました。
私にコンクール歴が無いのは、そういう理由です。
今、まさに燃えている平田さん。その原点をうかがい知ることができました。
私共のようなアマチュアでも、いやアマチュアであればなおのこと、競争よりも「音楽性の追求」という道を目指す方は多いと思います。
「アマチュア」と言う単語の語源はラテン語の「Amare(愛する)」だということを、迂闊にも最近になって知りました。文字通り、愛好家ですね。
プロこそ率先して「愛好家」であるべきなのに、商業主義や資本主義はそれを許容しません。
でも、練習すればするほど、「好きこそ物の上手なれ」を思い知ります。
私は愛好家コミュニティーの一員として、自分が受けてきた特権的教育やプロ活動を通じて学んできたことを、同志愛好家たちとシェアする機会がある幸運に感謝しています。