演奏と録音の決定的な違い

3月末から私の7枚目となるアルバム「100年:ベートーヴェン初期作品2-1(1795)とブラームス晩年作品120(1894)」を私の心の友であり良きデュオ・パートナーのクラリネット奏者佐々木麻衣子さんと収録している。ベートーヴェンのピアノソナタ一番と、ブラームスのピアノとクラリネットのためのソナタ1番と2番。

自分のこれまでの6枚を含め、録音はもう二十年近くにわたり色々手がけて来たが、録音と言うのは本当に厳しい。素晴らしい試練と言えばポジティブだが、自己批判をしながら弾くと言うのは苦しい物である。

演奏中、3人の自分が居なければいけない、と言う事はピアノのレッスンなどで良く言われる。そこまでの自分の演奏を良く聴いて評価する自分、演奏に集中する自分、そして現時点以降の曲の展開を考える自分、である。録音の時にはこの最初の自分がとても大事になる。できるだけ効率よく、完璧に近い演奏を収録するためには、今進行中のテイクを続けるべきか、ここで中断して違うテイクを弾き直すべきか、常に判断しながら弾き進んでいる。

生演奏の場合、過去のミスは忘れるしかない。ミスをしたら大事なのはいかにそのミスの影響を最小限に食い止めるか、だけ。その為には演奏する自分と、現時点以降の音楽に集中する自分の方がよほど大事になる。音楽と言うのはコミュニケーションだ、と私は思っている。自分の気持ち、自分が美しいと思う物、そう言う物をシェアしたくて自然発祥すると言うのが音楽の理想的な在り方だと思う。だから生演奏では、お客さんのエネルギーと言うのが私の演奏を大きく左右する。お客さんがいっしょに乗ってくれるとワクワクする。ピーンと空気が緊張して無音の状態よりもさらなる静寂と言うのをお客さんと分かち合う、と言うのも物凄い一体感だ。この前(3月23日)にアジア・ソサイエティーで演奏した時は、リストのハンガリー狂詩曲で聴衆に参加を呼びかけたら、みんなノリノリになってくれた。

 

しかし録音の場合、このシェアする対象がとても抽象的なのだ。しかも色々な機械を通して変わった音を、全く違った環境で、今の私の演奏を聞く様々な人達、と言うのは想像し難い。

じゃあ、なぜ私は録音をするのか。私は2001年のラヴェル初期作品を皮切りに大体2年に一枚のペースでアルバム収録をして来た。これは自分に課した修行だ、と思っている。私の音楽人生を支援し、可能にしてくださっている沢山の方々や団体に感謝の表明と成長の報告、と言う意味もある。自分の成長の記録と言う意味もある。しかし、収録の作業と言うのは自己反省の、物凄い勉強なのである。練習中でも中々到達できない自己批判のレヴェルが、セッション中ずっと続くのである。これは非常に疲れるが、同時に自分が上達している実感も伴う。

そんな収録が続く中、明日は何度もすでにお世話になっているCrain Garden 演奏シリーズで正午にベートーヴェンのソナタとショパンの英雄ポロネーズ、リストのメフィストワルツを演奏させていただく。ご褒美みたい。とっても楽しみである。

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