今日のブログは日刊サンに連載中させて頂いて3年目になる私のコラム「ピアノの道」1月23日発表の記事を基にしています。
あなたはご自分の声が聴こえていると思いますか?
「自分の音を良く聴いて!」と子供の頃よくレッスンで注意されました。(どういう意味だろう)といつも不思議でした。周りにかき鳴らしている自分の音をさらに『聴け』とは...?
「To listen is to expect to hear things(聴くというのは聞こえて来るものを期待感を持って迎えることだ)」と高校生の時先生に言われました。子供の頃からの疑問にヒントが得られた気がしたのを今でも覚えています。
音を発する行為に集中すると―例えば弾いている曲に入り込んだり、自分の発言の内容に思い入れが強かったりすると—逆に自分が発している音その物は聞こえなくなる物なんです。
コンピューターも脳神経もインプットとアウトプットは同時には出来ません。本当に聴くということは全身全霊を聴いている音にゆだねるということ。逆に正直に表現をするということは自分の中からあふれ出す信念や情感に体を任せるということです。究極の音楽はそのバランス―それが「弾きながら聴け」なのかもしれません。
私は『弾く』と『聴く』を分けて練習しています。『弾く練習』は技術的に楽譜を再現する練習に加え、自分がその曲に託したい感情や想いの表現法を探索する練習です。同じパッセージを「こうも弾ける」「ああも弾ける」と違う奏法や解釈で繰り返して弾いたりします。『聴く練習』は楽譜の音の響きを聴き、作曲家の想いを汲む作業です。ゆっくり弾いたり、和音を一つずつ「ポーン」と鳴らして余韻に聴き入ったりします。
でも実生活では自分が立てる音や喋る言葉は状況や必要に対応した即興ですよね。私は中々自分が聴こえない「表現者」なのです。周りをはばからず手放しで大笑いしたり、情に駆られて早口でまくし立ててしまったりするんです。でも最近、ゆっくり喋られる方は自分の声が聴けている人だ、と憧れます。自分が発する音/声が聴こえてくる未来に期待が出来ている人だ、と。
この記事の英訳はこちらでお読みいただけます。
お疲れ様です。
観客は、耳を攲(そばだ)てています。
音は、忘我の中から奏でられます。
それが、内なる表現者の声です。
小川久男