1750年から1825年、革命の時。

1749年にヘンデルの「王宮の花火の音楽(Royal Fireworks)」―屋外での式典のために書かれた管弦楽のための華やかな曲―の公開リハーサルが行われた際、12,000人もの人が一目みたいと詰め掛けて、三時間交通が不通になったらしい。前回でも触れたが、公開演奏会が始まったのはロンドン、1672年。それがパリでも1725年に始まり、ドイツのライプツィグでも1763年に始まる。中産階級のアマチュア演奏家や愛好家を念頭に置いた演奏法や音楽理論の本が多数出版され、出版社はアマチュア用の曲を作曲家に依頼する。音楽が特権階級のみの物だった時代は過ぎ、大衆が演奏・出版・作曲される音楽を左右する時代の到来。それは要するにに革命の時代であった。
啓蒙主義的な考え方がどんどん浸透する。人間の観察力、経験から学ぶ力を伝統や宗教より重んじ、常識的・実際的な道徳の方が教会の教えより大事であるとする。国家や体制の役割を人権の保護とし、一般教育の必要性を説く。人工的なものより自然なものを良しとし、自然に(のみ)『真実』が見出せるとする。人間皆平等、人間皆兄弟。この思想が最後にベートーヴェンの第九のフィナーレ「喜びの歌」で開花するまでの道のり、と言うのが古典派の作曲家の生きたヨーロッパ。
オペラの発展に置いても、その反映を見ることが出来る。
メタスタシオ(1698-1782)と言う詩人が居る。音楽史での彼の重要性は、オペラ・シリアと言うジャンルを確立したことに在る。彼自身、啓蒙主義者を自負し、聖ローマ皇帝の委嘱にはしばしば啓蒙主義的で寛容な皇帝を登場させ、娯楽を通じて道徳教育を、と言う観点を持って書いていた。これはこれで成功し、27しか無かった彼の台本は実に100以上のオペラとなって今日に残る{例えばモーツァルトもオペラにした「Clemento di Titto」)。しかし、彼はあまりにもはっきりとしたオペラ・シリアの公式を確立しすぎた。3幕それぞれ大体10から20のシーンがあって(登場人物の入場・退場をシーンと数える)、登場人物は大体6人(二つのカップルとそれから打ち明け話を聞く脇役)。アリアとレチタティーボを交互に繰り返す。そして絶対に喜劇的要素があっては成らない… こういう体制を提示されると、すぐ反抗したくなるのがこの時代なのである。
まず最初にオペラの幕と幕の間の休憩時間に一幕ずつ演じられるIntermezziと言う喜劇オペラのジャンルが急に発展する。Pergolessi(1710-36)の「奥様女中」はその代表作だ。これは言うことを聞かない女中にまんまと言いくるめられて最後にいつの間にか結婚を申し込んでいる独身貴族の男性のコメディー。社会階級の差や、貴族制度などを笑った風刺劇である。そしてそのちょっと後に始まったOpera Buffaと言う喜劇オペラ。Intermezziと並び、貴族からの委嘱ではなく、公開オペラ劇場で演奏されるために出てきたジャンル。でも、コメディーと言うのは芸術的実験がしやすい。と言うことで、これらのジャンルはオペラ・シリアを抜いてどんどん芸術作品として発展。モーツァルトの『コシ・ファン・トュッティ』や『フィガロの結婚』までどんどん成長して行く。この頃にはもう貴族も腹を抱えて笑う、皆に愛されるジャンルである。そして貴族をも笑わせながら、社会制度の痛切な批判もユーモアに交えて行えるのが、こういう喜劇なのだろう。そして喜劇のジャンルだけではなく、まじめなオペラにも見直しの空気が1750年くらいに巻き起こる。一つはフランスで起こった「バフーン口論(Quarrel of the Buffoons)」。これはイタリアの喜劇オペラ(Opera Buffa)のグループが2年ほどパリで公演をしたのをきっかけに巻き起こった。それまでのフランス・オペラは余りにも様式に凝り固まっていて、自然さも人間味にもかけていた。もっとイタリア喜劇に学ぶべきではないか…と提唱したグループの筆頭に立ったのが「自然に帰れ」のジャン・ジャック・ルソー。彼は実は自身も作曲家でもあって、この「イタリア喜劇スタイル」で、実験的なフランス語のオペラさえ残している。それからイタリアを中心に起こった「オペラ改革」。それまでのオペラを余りにも様式ばっているとして、より自然な表現を追及したグラックに代表される動き。
交響曲も、四重奏もこの時代、ハイドンによって確立されたジャンルとなり、それをベートーヴェンが一気にその限界まで持っていってしまう。それまでは奏者の楽しみのため、聴き手の娯楽のための音楽だったのが、ベートーヴェンでなぜかいつも、作曲家のため、さらには音楽のための音楽、になるのである。ミサ曲でさえ、すでに宗教のためではない。ミサ曲と言うジャンルを使って、ベートーヴェン様が何か物凄い音楽を書いている、のである。何故そう言うことが許容されたのか。それはベートーヴェンの表現しようとしていたことが全く啓蒙主義のそれと、たまたま一致したから、そしてベートーヴェンと言う人物そのものが(難聴を乗り越えて、作曲に人生をかける個人)その頃革命を計画・実行する人々の理想にかない、個人の内面と言うことがどんどん大事に成っていくロマン派への格好な橋渡しになったからではないか。
随分はしょったが、ロマン派に早く行きたいので、今日はここまで!

Leave a Comment

Your email address will not be published. Required fields are marked *