金曜日の夜、夏休み中倉庫に入っていた大荷物を部屋に運び込み、大整理をしていたらば
右の人差し指の爪の先っぽがちぎれてしまった。
爪の中のピンクの肌があらわになって、ちょっとひりひりして痛かったので、
この週末は練習は控えることにした。
ちょっとひどい深爪くらいのものだし、夏前の私だったら疑いなく練習していたと思う。
でも、タングルウッドの後、いろいろ考察することあって、その一つに
私は今まで練習しすぎて、その為に多くのものをむしろ失っていたのではないか、と言うことがあるのだ。
惰性で弾いてしまい、音に鈍感になり、音楽が当たり前になる、と言う状態。
その状態を脱出すべく、今回のはがれ爪は良い機会、と思い、練習をしなかった。
その代りにまず、いろいろな作曲家によるエッセーを読んだ。
タングルウッドでのブログで何回も
「現代曲考察については、いつかきちんとまとめて書く」
と、宣言したが、未だに実行ができないのは、考えれば考えるほど色々分からないからだ。
だから、作曲家たちは何を考えて、この方向に音楽を動かして行ったのか読んでみた。
大きく分けて、19世紀末期、20世紀初期の作曲家たちは2つに分けられるかも。
一つは非常な客観主義。音楽のそれまでの伝統的な文法に見切りをつけて、感情表現の手段では無く、ただ単に自分の五感で感じ取った外界の描写として、自然に存在するのに近い音を自分なりに整理したものを「音楽」とする。印象派のドビュッシーを始め、Emersonや、Thoreauに触発されたアイヴスの超越主義、それから意外なところではブゾーニもどちらかと言えば、こちらに近い。
もう一つは非常な主観主義。もともと教会や宮廷の為にはっきりとした社会的役割を持っていた西洋音楽は、啓蒙主義(ベートーヴェン)以来、自己表現の為の音楽に変わる。それがロマン派で、より感情を強調した方向に持って行かれ、さらにフロイドの登場で、自分にも意識し得ない、意識下の世界の探索の手段としての芸術、と言うことで表現主義がウィーンに登場。社会的常識を超越した、野性的、暴力的な表現。ショーンベルグを始めとする、ウィーン第二学派はこちらに属する。
ドビュッシー、ブゾーニ、アイヴス、ベルグ、ウェーバーン、そしてショーンベルぐによるエッセーを読んだ。実に興味深かった。そして作曲家たちはみんな、かわいそうになるほど一生懸命だった。
はじめは、「練習できないからお勉強でもするか」とちょっと義務感から始めた読書だったが、面白かった。