私は、ユングの集合無意識や最近言われる集合知を音楽家として日常的に体感しています。そうすると必然的に、知的財産という概念に疑問を抱かざるを得なくなります。
こんな夢を見たのです。
私が劇場に入ると、小学生から高校生くらいの女の子たちが8人くらいわらわらと走ってきて、尊敬と親愛でキラキラの眼差しで私を見つめます。皆の笑顔で私は心底温められます。その内、この子たちが出演するミュージカルの様なショーが始まります。観ているとなんと、私が執筆中の手記のエッセンスが凝縮されたショーであることが分かります。私の手記は、西洋音楽に於ける根深い男尊女卑や白人優勢主義がどのように東洋人女性ピアニストのキャリアに影響を及ぼすかと言うことを、私の実際の経験と観察を例として提示した上で、音楽史の研究に裏付けて書いています。小学生には読ませたくない内容です。でもそのショーでは、セクハラ・パワハラ・差別など露骨な逸話は全部昇華され、私がそういう現状の直視と歴史的背景の理解で初めて可能になると思っている「音楽は世界の共通語」の理想がエッセンスとして表現された、素晴らしい舞台芸術作品になっているのです。女の子たちはみんな誇りと技術と自信を持って堂々と素晴らしい演技を披露しています。(私の言いたいことが完全に伝わっている!そしてこんなに立派な次世代女性の育成と、その作品として役立っている!)会場では私はただの一人の観客です。演じている女の子と私以外は、このショーが私の手記を基にしていることは誰も知りません。でも私は演じている女の子たちとも会場の観客たちとも非常な一体感を感じて、心から満足しています。
目が覚めて、(夢の中で私は知的財産とか、盗作とか、そんなことはこれっぽっちも思わなかったよな~)としばし感じ入りました。夢の中の私は自分の考えや観点を次世代女性たちと共有できているという実感が、ただただ心の底から至福だった。
バッハ・モーツァルト・ベートーヴェン…我々はこれら作曲家は天才だと教えられ、彼らの残した作品に疑問を持ったり、1音でも間違えたり、強弱やテンポなどの指示に従わないことはまるで冒涜行為や反逆罪の様な教育を受けます。でもどんなに崇めまつられる芸術家でも、突然変異の様に唯一無二の絶対的な創造力や叡智を一人突発的に授かり、他の誰にもかなわない作品を次々と生み出すわけではありません。それぞれに親兄弟や師弟や社会背景があり、何世代にも渡る音楽伝統を受け継いでおり、更に後世からの評価にも色々な社会的バイアスや政治的意図があったりするのです。時代を超えた傑作や天才の価値が絶対的だというのは間違っているーこれが私の主張です。唯一無二の絶対的な価値の「天才」と祀られるのが白人男性ばかりになり、有色人種や女性が圧倒的に少なくなるのが、この考えが偏見であることの証拠の一つです。これは結局、世界全般の損失です。
新技術や芸術作品が個人に属するという考えーこれが知的財産という概念の由来です。でも、例えばトーマス・エジソンが電球や蓄音機を「発明」しなくても、アインスタインが相対性理論を「発見」しなくても、電球や蓄音機や相対性理論は他の科学者によって存在したであろうことは周知の事実です。それと同じように唯一無二の芸術家というのはいない。大事なのは集合知で、個人は微力だ。
私は、ピアノを演奏し、物を書き、そして次世代を教えることに人生を捧げています。なぜだか自分にも分かりませんが、私を突き動かすどうしようもない意欲に抗えないのです.。「王様の耳はロバの耳…!」穴に向かってでも叫ばざるを得なかった床屋の逸話を思い出します。でも死刑の脅威にも関わらず叫んだ床屋とは違い、私の人生は悲壮ではありません。使命と呼ぶことすらためらうほど、毎日が楽しい…!私は書くことも、ピアノの修練も、教えることも大好きです。手記の執筆に至っては出版の目途も立っていないのにもう7年半も書き続けています。そして、書き進める中で培われる自分の過去との関係の進展や、歴史の風潮上での自分の立ち位置への理解の発展に喜びを感じ続けています。
私ができることは、できるだけ正直に、できるだけ誠実に、私を突き動かし続ける考えや感情を表現していくことだけです。そして正直に誠実になろうと心がければ心がけるほど、自分の主張と共鳴する表現者たちが過去にも現在にもいかに多いか気が付きます。我々はみんな、それぞれ違う逸話と語り口で、結局ず~っと同じことを言っている。新しい表現法、新しい表現内容を「創造」したからではない。我々が言わずにはいられないことが普遍的だから、言い続けることが大事なんだ。
生成AIは我々人間が昔から現在に至るまでずっと言ってきた膨大な言語主張を学習し、パターン化して、我々の問いかけに対応します。生成AIを訓練するたに著作権が有効なデータを使うことは倫理的か。私は知的財産と言う物自体をこの際無くしてしまっても良いと思います。一人はみんなのために、みんなは一人のために。
なぜアイディアや見解や発明が一人の人間のみに属せるという概念がそもそも成り立ったのか。
個人主義と言う考え方はそもそも、排他的な一神教から来ていると聞いた事があります。唯一無二の全治全能の神が、個人ひとりひとりとその運命を定めている。だからそれぞれ個人の唯一無二性を大事にしなければいけないーこれが個人主義だ、と。
排他的一神教。唯一無二の全知全能の神は一つの在り方でしか可能ではなく、他の全ての在り方はまがいものだという考え方。それはすなわち、真実には一つの在り方しかない、と言うことです。しかし、我々が体感する現実は常にダイナミックに変動を続け、そして様々な捉え方や解釈が毎瞬可能な、極めて流動的なものです。
AIや未来の不確定性に脅威を感じるのは、個人主義とか一神教の様に揺ぎ無い真実に拠り所を求めてしまう固定観念の為ではないでしょうか。固定観念から自分を解放ち、「生きとし生けるもの全体」の集合知の一部としてそれぞれの意識・知覚があるというパラダイムで物事を捉えられれば、もっと柔軟にこれからの時代に対応できるのではないでしょうか。
この考えの延長線上で私は今、執筆中の手記は本当に本として出版するのか正しいのか悩んでいます。私は幼少時から本の虫で今でも本という媒体が大好きですが、でも今の出版業の現状や書物のこれから、そして更に廃棄処分になる売れ残りの出版物の環境負担を考えると、「本を出したい」というのは単なる私のエゴではないか、と思い始めたのです。そしてそんな時、私の大昔のブログを読んでいたという初対面の方々に立て続けに数人お会いするご縁に恵まれ、気楽に書きまくって来たブログの方が、渾身込めて書いている私の手記よりも多くの人に届いていることが不思議であると同時に納得もできるのです。手記の執筆は続けますが、これをどのように世の中に発表するかはもっと柔軟に考えても良いのではないかと思い始めているのです。


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