先週末はライス大学で台湾の伝統音楽・楽器・奏者・作曲家が招待され、
西洋現代音楽と共演をすると言うシンポジウムが開かれた。
私も3日3番のシンポジウムの中日の夜に行われた演奏会で演奏した。
(詳しくはこちらのHP:http://music.rice.edu/21C/)
博士論文のスピーチコンクールの中でも言ったことだが、
暗譜の伝統が定着した1890年ごろには、
リサイタルのフォーマットや、
弾かれるレパートリー(バッハ、ベートーヴェン、モーツァルト、など)
が型にはまり、今でもそのまま受け継がれている。
暗譜は歴史的に偉大な作曲家をあがめる態度の一貫として伝統化した側面がある。
しかし、この歴史と伝統の重圧のおかげで、それ以降の発展がいつも
逆光を浴びるかのようかすんでしまったのも事実だ。
それまでは
『音楽はいつも進化しているもので、新しい音楽の方が古い音楽より優れているのは当たり前』
と言う考えだったのが、いつの間にかバッハからロマン派までの作曲で停滞しまった。
例えば、ライプチヒで演奏された作曲の中ですでに死去した作曲家の作品は
1782年には11パーセントだったのに対し、1870年には76パーセントになっていた。
これは聴衆や主催者だけの責任ではない。
作曲家が「自己表現」「まだ誰も試したことのないユニークな作法」を追求するあまり、
聴衆とのコミュニケーションを蔑ろにした結果でもある。
そんな中でアジア人の作った現代曲に焦点を当てたシンポジウムはマイナー中のマイナー。
しかしその反体制的な態度の表明としての意義、
さらにアジア人としての西洋音楽におけるアイデンティティーを探し求めるものには
ありがたいシンポジウムとなったと思う。