書評:A Problem from Hell: America and the Age of Genocide (2002)

トランプ政権最終日の1月19日、ポンペオ国務長官が中国がウイグル族に対して行って来ていた弾圧を「ジェノサイド(Genocide)」と認定しました。

私にはウイグル系日本人の友達がいます。知性豊かで、はきはきと明るく、心配りのこまやかな、素晴らしい女性です。お恥ずかしながら世界情勢に疎い世間知らずの私は、2018年に彼女に出会うまで中国国土に自治区を持つウイグル族の事も、彼らの多くが中国政府によって強制収容所に入れられている事も知りませんでした。でも、彼女が時々涙を素早くぬぐいながら、しっかりと力強くウイグル族の為に行ってくれたプレゼンを拝聴して思い出したのです。私はNYで学生をしていた頃、避難民として渡米していたチベット仏教のお坊さんたちと仲良くして頂いていたのでした。ダライ・ラマのコックさんだった高僧に手料理をご馳走になってしまった事もあります。彼ら自身からは辛い過去のお話しを聞くことは無かったのですが、彼らを支援しているコミュニティーの方々に勧められて中国のチベット弾圧に関する映画やチベット仏教や歴史に関する文献は少し齧っていました。更に私はルワンダの隣にあるブルンジ共和国でのツチ族大虐殺の後、精神科医として現地でのボランティア活動を始めた友人の体験も聞き知っていました。友達のプレゼンを聞いた時に(また...)というやるせない焦燥感を感じました。そうこうしている内に、今度はミャンマーのクーデターが起こり、軍政権の市民弾圧と共に、ロヒンギャ族避難民の辛い報道も流れてきました。

Dr.ピアニストとして私は「音楽は共感力を高める。境遇や文化背景が違っても人間みな兄弟―時空を共にした運命共同体—と思い出させるのが音楽家の役割だ」と主張して来ました。私は今こそ、自分の言葉の真実性を試してみるべきだと思ったのです。私に出来ることで、本当にウイグル系日本人のお友達の役に立つことは何か。音楽は、そして私の様な音楽家は、本当に社会にインパクトを与えられるのか。演奏会が無い今だからこそできる熟考と実験を、自分に課してみようと思ったのです。

私の友達にはすごい人が多いのです。国連でテロやエボラ対策、更にスーダンの民主化などのお仕事も手掛けた友達に相談しました。「どうしてこういう大虐殺が何度も起こるのか、歴史から何が学べるのか、もっと勉強がしたいです。」その時彼女がジェノサイド(民族集中虐殺)について一冊だけ読むのならこの本と言って勧めてくれたのがこの本です。

この原題を私が日本語訳するとしたら「地獄からの問いかけ:民族大虐殺の世紀とアメリカ合衆国」。ピュリツァ―賞と全米批評家協会賞などに輝いています。扱う問題の重要性、リサーチと考察の奥深さと権力にはばからない厳しい視点、そしてヒューマン・ストーリーと政治・経済などの背景の分析の素晴らしいバランス、更に共感を呼び起こす文章力。(こんなに重いトピックなのに不謹慎では?)と読者に罪悪感を感じさせるほどぐいぐいと読ませる、名著です。

まず、前例として20世紀初頭のアルメニア人大虐殺に触れた後、この本はジェノサイド(Genocide)という造語を最初に提唱した人物の話しから始まります。「スイサイド(Suicideー自殺)」「ホモサイド(Homocide-他殺)」などサイドは殺害です。そしてジェノは民族。ジェノサイドの直訳には「民族抹殺」が相応しいでしょうか。この言葉を提唱したのは、ラファエル・レムキン。ポーランドのユダヤ人家庭に1900年に生まれた弁護士です。彼はナチスによるユダヤ人大虐殺を誰よりも早く予言しますが、「逃げよう」という彼の主張に家族・友人も耳を貸しません。そこから彼はその余生をずっと虐殺を国際法で違法にし、さらに虐殺という行為そのものを過去のものにするために捧げます。「名前が無い問題は、認識が高まらない」と考えた彼がジェノサイドという単語にたどり着くまでの研究と考察と心理葛藤のドラマは凄いです。

しかしレムキンの狂おしい奮闘むなしく、20世紀の後半はジェノサイドが繰り返されます。この本で扱われているのはイラク、カンボジア、ルワンダ、コソボ、ボスニアなどです。そしてアメリカ合衆国を始めとする欧米の経済・軍事大国は大虐殺が勃発する度に介入をためらいます。この本では主にアメリカ合衆国がいかにのらりくらりといつも介入への内外からのプレッシャーを交わし続けたか、という事を描きます。言い訳は大体同じです。証拠不十分。国際介入が可害者を刺激すれば被害を悪化させる可能性があるのではないか。介入した場合の損失の計算。そして政治的思惑(国内での評価、経済効果など)。体外的な思惑もあります。アメリカ合衆国がアメリカ原住民に対して行ったのはジェノサイドでは?黒人は?ベトナムは?1988年まで、アメリカ合衆国は国連のジェノサイド条約に加盟しませんでした。そして加盟後も、アメリカ合衆国のジェノサイドに対する政策はほぼ一環しており、さらにジェノサイドはこの本の出版後も世界中で起こり続けています。

この本の中には何人かレムキンを筆頭に孤高のアンチヒーローたちが出てきます。レムキンは衣食住に全く顧みず、文字通りなりふり構わず一生ジェノサイドの国際法違法認定と予防に捧げました。その他、自分の安全を顧みず、契約違反を犯して失職覚悟でジェノサイドの現場調査に赴いた政治家もいます。この人は一人息子に遺書を書いて出かけたそうです。1968年からアメリカ合衆国がジェノサイド条約に加盟する1986年まで、議会の度にジェノサイド条約加盟を推すスピーチを行った上院議員もいます。最終的に3000回以上のスピーチになったそうです。でも、これらの政治家たちは歴史に大きく名前を残す事はありませんでした。

著者のサマンサ・パワーは、上のアンチヒーローたちをお手本にすれば、この大虐殺の繰り返しを阻止できる、大虐殺が起こった時の対処法が学べる、と前書きで述べています。でも、私は違うのではないかと思います。これらの理想主義者たちは、例外的な没頭型です。性格的に少数派だと思います。一般的には、人間は自分に直接被害が無い辛い現実からは目を背けて自分を守ろうとします。私は、ジェノサイドは自分に直接被害が及ぶ問題だ、という認識を一般に広める方が効果的だと思います。

昨日のブログで利他主義と未知への探求心と言う事を、唯一の人類存続の道、と書きました。これからもっと詳しく書いていきますが、ジェノサイドについて私が考えるのはこういう事です。

人間には他人に自分を重ね合わせてみる、という特性があります。だから他の人が苦しんでいるのを見ると自分も苦しくなってしまう。その時、選択肢は二つあります。①見なかったことにする。②相手の苦しみが和らぐように何かする。私たちが①を選びやすいのは、文化・教育のせいでしょうか、それともその方が簡単だからでしょうか?いずれにしろ、①は大きな目で見てサステイナブルではないと思います。何故なら人間はみんな、自分が老いて死に逝く過程で苦しんでいる本人になる事を知っているからです。だから苦しい人から目を背ける度に、自分が苦しい時に目を背けられるという確信を強くしていくわけです。幼稚園で習う「自分がして欲しい事を他の人にしてあげましょう」は、相手の為じゃなく、自分の為なのです。利他主義はまわりまわって自分の為、というか人類の為、なのです。

もう一つあります。それは「平均幸福度」がそのまま個人の幸福感に繋がるという考え方を広めることです。ポジティブ心理学などの研究によると、私たちの幸福感は、私たちの周りの人間の幸福感に大きく左右されるそうです。勿論親しい人の幸福感が直接的に大きな影響を持つのに対して、遠い外国にいる人の幸福感はそこまで影響力は無いかもしれません。でも結局世界は一つ。みんな間接的でも最終的にはつながっています。幸福な人がより多い方が私たちそれぞれ個人の幸福感・健康・生産性・社会性、全てに良い影響を及ぼします。だから、苦しみを減らしましょう、平均幸福度を上げましょう、という考え方です。

よし、分かったマキコ!「自分がして欲しい事を周りの人にする!」「世界平均幸福度を上げる!」…じゃあ実際何をすれば?

ウイグル族の問題は、ジェノサイドの歴史を変える良い前例になり得ると思います。ポンペオ前国務長官が中国のウイグルに対する仕打ちをジェノサイド認定したのは、政治的背景がどうだったにしろ、幸運でした。国際メディアの注目を集め、さらにジェノサイド条約加入国の介入にプレッシャーをかけました。

他にもウイグル問題が今までのジェノサイドと違う事があります。一つはSNSの時代の恩恵で被害者本人たちが被害の実態を直接世界に訴えているという事です。もう一つは企業の経済力が多くの国家予算よりも大きい時代だ、という事です。ウイグル人が強制労働を強いられている工場に発注をしている大企業の製品をボイコットする事で、大企業の経営方針を動かす力を消費者は持っています。

ウイグル族の強制労働に関与していると指摘された日本企業14社:日立製作所、ソニー、TDK、東芝、京セラ、三菱電機、ミツミ電機、シャープ、任天堂、ジャパンディスプレイ、パナソニック、無印良品(良品計画)、ユニクロ(ファーストリテイリング)、しまむら。

でも、ここまで書いて私が思い出すのは、中国のチベット弾圧問題の時も、私たちは中国製商品のボイコットをしました。本当に経営方針を大々的に動かし、中国の様な大国の政策に影響を与える規模のボイコットは実際に可能なのでしょうか?

チベットのお坊さんたちは今でも世界中を回ってチベット仏教の儀式のお披露目をしたりして、世論に訴えています。ダライラマは今でも非暴力で、恕の心を訴えています。チベットのお坊さんたちはいつも自分たちがお経を唱えることで世界を少し良くしていると信じているのだそうです。あそこまで苦渋を舐めたチベットのお坊さんたちが、です。私は演奏会が無い練習が苦しく感じられるときは、チベットのお坊さんを思い出して祈るつもりでピアノを弾きます。

本当に私が出来ることはこういうブログを書いて、一人で練習して世の平和を願う事だけなのでしょうか?私は下手に気休めを言ったりすることは結局自己満足で、悪くすると問題を濁したり、悪影響や悪感情を起こす可能性もある事も分かっているつもりです。でもだからと言って結局なにも行動を起こさないのでは、堂々巡りです。

もう少し考察と試行錯誤を続けます。

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