博士論文

時間配分の術

毎日ぎっしり! しかし、ヨーガには欠かさず通っている。 今まで私は一日これだけ集中!と言うスタイルの頑張り方が多かった。 「今日は起床から就寝まで練習のみ!」とか 「朝一で図書館に行って、半徹してペーパーを仕上げる!」とか 「今日は一日何もしない!休みの日!」とか。 でも、ヨーガをやるようになって 「ヨーガの前・後」と区切りが出来るようになった。 院生・教授のためのヨーガのクラスは月曜日から金曜日まで毎日正午か5時半からある。 その日の都合によって正午のクラスにするか、夕方のクラスにするか臨機応変だが 「ヨーガまで練習して、ヨーガの後は論文執筆」とかやると 限り在る時間内でヨーガのクラスまで頑張る!とするから (こんなに長時間頑張っているんだぞ!)と自己満足に浸りながら だらだらやるよりもずっと、効率も気分も良い。 ただ問題は。 「論文のため」のはずの時間に論文を全然出来ていないこと、である。 なぜか。 論文はコンピューターで書くから、である。 コンピューターを立ち上げる。 最初にメールチェックをしてしまう。 受信箱にはメールがどっさり。 一通ずつ対処していると一つの用事が次の用事へとつながり そうしているとまた新しいメールが新着していたり。 ちょっと息抜きにFacebookを見る。 メッセージがある! 応対していると、日本の友達からチャットで話しかけられる。 「おお!久しぶり!!!」 「何しているの?」 「えっと~、論文を...」 書いていない!! ... 理想的には論文と練習だけできれば良いのである。 でも、練習は演奏のため。 演奏には広報のこと、演目や広報のための情報の提出や、 旅程の手配や、お金の計算や、色々色々あるのである。 それ以外にも、皆どうやって時間のやりくりしてやっているんだろう、 日常生活の諸々。 さらに、地域の短大で教えることになった! (これについては授業が始まる来週以降にまたご報告します) 一クラスだけ、週二回、それぞれ1時間40分の授業で もらえる報酬はすずめの涙なのだが、 まあそろえる書類、提出する文献の多いこと! そしてそれに関連して応対するメールも数少なからず。 さらに将来の検討。 金策。 コンピューターを開けると、世界と人生が私を待ち受けている。 これにどうやって上手く対処して、 ある程度無視して、 論文を書く時間はそれに専念をするか。 ...と、言いながら、ブログを書いている私です。 論文、書け!

時間配分の術 Read More »

リサイタルは儀式!?

私の博士論文のトピックは「ピアノ演奏に於ける、暗譜の歴史」である。 暗譜演奏を定着させたのは、リストとクララ・シューマンと言う事になっている。 ちなみに、今日のピアノ・リサイタルのフォーマット ―2時間の、休憩を挟んだ独奏― を定着させたのもこの二人、と言われている。 (実際はリストがロンドンで1840年に行ったのが最初と言われている。クララ・シューマンは、リストに着想を得て、1844年に初めて『リサイタル』を行っている。これはこのフォーマットの方がより良いと思った、と言うよりは、それまでの伝統―他の楽器奏者や時には役者や劇団を雇って合間に演じさせる―は手配も大変で出費もかさむから、だったようだ) この二人とこの時代について言及してある、と言う事で 実際には暗譜については一言も触れられていなかったが 読んで見たら、面白かった。 The ritual of music contemplation: An anthropological study of the solo piano recital as cultural performative genre Pedroza, Ludim Rebeca http://search.proquest.com.ezproxy.rice.edu/docview/305478050/abstract/D02ACCDCA0A44617PQ/10?accountid=7064 まず、リサイタルと言うものの意義について問いかけます。 今の世の聴衆にとって、音楽を楽しむ、または知る上で、どれだけ有意義で有効なフォーマットか。 ピアニスト自身は、まるでリサイタルを演奏することがピアニストである証明のように 学生時代はその為に練習を重ねるが、実際の収入をリサイタルで得ることになるピアニストはわずか。 ならなぜ、ピアニストの教育で、リサイタルにこれまでの重点が置かれるのか。 まさに! 次に、リサイタルとは、むしろ儀式ではないか?と、問いかけ、儀式の定義を行います。 主に人類学者Victor Turner(そして補佐的に、人類学者Eric W. Rothenbuhler)の研究を基に、儀式とは二つに区分けられる、とします。 1.アフリカの部落のような小さく、工業革命の影響を受けていないコミュニティーに置ける、全員が参加を義務付けられる儀式。(例えば日本の伝統的なお祭り、教会の祭典、など)。これは、コミュニティーの日常から離れ、また日常の良さを確認して、戻るための役割がある。(Liminolity) 2.工業革命後の、大きな社会に置ける儀式(演劇、舞踏、スポーツイベント、など)-余暇にどの『儀式』に参加するかは、個人のアイデンティティーをつかさどる大きな要素。この『儀式』は日常から距離を隔て、日常や現実の正当性や、現状はどう変化できるか・するべきかと言うアイディアの提示などを行い、革命などに繋がることもある。(Liminoid) そして、では、リサイタルとは1と2のどちらに属すのか? 彼女は歴史を追って、リサイタルは儀式2から儀式1へ移行している、と意見を述べています。 もう一つ、この論文で面白かった点。 リスト対クララ・シューマンで、リサイタルは全く違う役割を果たしていた。 リストは自分の超絶技巧とスター性を見せびらかすために 聴衆を自分だけに集中させる2時間が欲しかった。 しかし、クララ・シューマンは音楽を崇高な物として、「娯楽」から遠ざけようとした。 その違いが選曲にも、演奏法にも、明らかだ、と言うのです。 私は明らかにクララ・シューマン線で今まで来ました。 しかし、最近、私にリスト線の選曲をリクエストする人が出てきているのです。 私はピアノ演奏をスポーツを見るような感じで技巧だけに感嘆して欲しくない、と言う思いから 例えばリストの『ラ・カンバネラ』などの曲を今まで避けてきました。

リサイタルは儀式!? Read More »