論文のための歴史検証。
暗譜の歴史について博士論文を書いている。 今までは、暗譜の伝統の歴史について (直接的に言及している書物が少ないから) 間接的に言及していそうな、 文化史とか、ピアノ史とか、 リスト、クララ・シューマン、メンデルスゾーン、ショパンなどのピアニストの伝記、 など、どちらかと言うと専門書に近い本を多く読んできた。 しかし、色々考えるところあって、ざっともう一度 一般的な音楽史を読み返している。 一番最初に学部生が一般的に必修の音楽史の授業で読む音楽史の教科書を読んだ。 これはまあ、復習。 そして今、 チャールズ・ローゼンの「The Classical Style:Haydn, Mozart, Beethoven」を読み終え 同じ著者の「Romantic Generation」を読んでいる。 Charles Rosenは私は昔から「すごい音楽学者だ」と思っていたが 改めてそのすごさを再認識。すごい造詣の深さ。 音楽史を文学史や芸術史や哲学史につなげて語れる。 爪の垢を煎じて飲みたい(もう亡くなってしまっているが)。 なぜこの優れた著書が日本語訳にされていないか、理解に苦しむ。 その中からすごく感銘を受けた個所を抜粋して要約。 『18世紀の見解では、宗教音楽は厳かな献身を、宮廷音楽は優雅さと華やかさを表現するものとされていました。しかし、新しい交響曲や協奏曲が入場料を払う一般聴衆のために書かれるようになっても、収入増加は勿論、受け狙いでさえ、その目的とすることは良しとはされませんでした。権力者へのごますりは許されても、一般聴衆のごますりは恥ずかしいことだとされ、これらの作品は「自己表現のため」に書かれた、と言う大義名分が付いたのです。 …この様な作品の価値はその誠実さにある、とされました。社会的役割がはっきりしない美的感覚のための製品としては当然のことです。「芸術家の内から湧き上がる必要性に応じて」産まれた、とされるこれらの作品は、表現以外の目的を持つことを良しとしません。個人的な目的さえ悪とされ、私的な犠牲はその証とされました。発表当初、一般聴衆に受け入れられない作品は、芸術家の「犠牲」の証となり、死後成功の可能性を高めたのです。産業革命や資本主義への反発もあって、創造活動のために飢える芸術家はその存在自体が美しいものとされました。 …この時代に楽器音楽がもてはやされた理由にはこういう社会的背景があったのです。言葉に囚われない楽器音楽は社会的役割からも、宗教からも束縛されません。言葉と同じように表現するものとされながら、表現の対象がはっきりしない―そのために役割もはっきりとしなくなる、しかし独自の世界を創り上げる力がある、とされる。』 『(コールリッジの「The Friend」から要約して)作曲家の作業と言うのは歴史家のそれと似ている。過去の語り方を選ぶことで現在への見解と将来への期待を影響する。歴史家も、偉大な作曲家も、まず驚かせ、その後読者(や聴衆)を驚かせた歴史的(あるいは音楽的)出来事がどのように準備され、必然的なものであったかを、解き明かせて見せる』 この様に読み進んでいると、今まで自分独自のものだと思っていた見解や信念が、いかに自分の周りの歴史的・社会的背景の産物であるか、気が付いて愕然とします。 久しぶりに本の虫です。