水曜日(家族到着)
私の卒業式に参列して一緒に祝ってくれるために水曜日に日本から両親と、ニュージャージー州から私の高校以来のホームステー先の育ての母、アメリカンマザーのジョーンが来てくれました。空港からピックアップして再会を喜び合い、ホテルまで送り届けました。本当に遠路をはるばる良く来てくれました。「今までの卒業式は寂しい思いをさせてしまった」と父は言ってくれたけれど、今回来てくれて本当に嬉しかった。
木曜日 (リサイタル「天上の音楽vs。地上の英雄」)
夜、卒業前の感謝独奏会を行いました。
7年間ライス大学に在学中、私の人生は本当に奇想天外な経験を沢山潜り抜けました。ライスについて半年後に東日本大震災があり、ライス大学の多大な協力を得てチャリティー演奏会を行ったのが、アンサンブルMATIMAで私と一緒に創始者・デュオパートナーとして活動してくれる、素晴らしいクラリネット奏者の佐々木麻衣子さんと初対面で、大変なイベントを力を合わせて制作しました。そこで協賛してくださったヒューストン日本人会とは、これをきっかけに本当に密な関係を築かせていただき、沢山の演奏会を主催して頂いただけでなく、私がストーカーピンチで警察や弁護士を交えて大騒ぎをしている時、演奏会の警備を買って出てくれたり、家族の様に親身に応援してくれました。ライス大学も隠れ場の仮の住まいを用意してくれたり、護衛を付けてくれたり、警察や検察への捜査に対応する私を書類記載など事務的な事を代わりにやってくれたり、全面的に私に協力してくれました。私が充実した学生生活と演奏活動を中断することなく、この7年間修業し、卒業に至ることが出来たのは、本当に沢山の人が応援してくださったからなのです。ストーカー騒ぎで大変だったことも沢山あったけれど、その中でもパリに三回行き、演奏と共になんだかお角違いな「国際比較文学」の学会でプロコフィエフのオペラに関する発表をさせて頂いたりもしました。麻衣子さんとマドリッドに行って国際クラリネット協会の大会で演奏したり、その後ドイツの音楽祭に参加したりもしました。そして野の君は、私が足が地に着かない状態でストーカー退治と演奏活動をふわふわこなして博士論文に手つかずなのを見かねて、「夜の勉強会」を提案してくれました。ただ単に、二人でノートパソコンと文献と共に、スタバで毎晩会話をするでもなくそれぞれの作業をするだけなのですが、この時間は私に物凄い安心感をもたらしてくれて、私は本当にお陰様で論文を書き上げる事が出来ました。論文指導教授が「ライス大学に来て以来私が読んだ中でも最高の論文だ!」と褒めてくれた、会心の作です。
私は感謝の表明をせずには卒業しきれないくらい、沢山の方に多大なご協力を頂いたのです。ストーカー騒ぎが発生した時、演奏会主催者からも、教師として雇ってくれている学校からも、敬遠されるだろう、と覚悟しました。聴衆や私の生徒や、更に私の学友などに危険が及んだら大変です。甘受しよう、これも運命、と思いました。でも、私の演奏会は一つもキャンセルされなかったし、むしろ増えたくらいです。そして日本人会の人達が望遠レンズのカメラを準備して(警察通報した際、本人が逃げた後でも証拠が残るように)、駐車場では炎天の中野球バットを持って見張ってくれ、演奏会が滞りなく開催されるように、万全を尽くしてくれました。そして私を教師として雇ってくれていた学校も「了解しました。警備を強化します。あなたはここにいる時は何も心配せずに教える事に専念してください」と言ってくれました。麻衣子さんは私にいつもよりもむしろ密に寄り添って、自分の被害を顧みずに励ましてくれました。今思い出しても涙が出てきます。
演奏会には、家族のほかにも、学校の事務関係の方で私のストーカー退治をいつも心に停めてくださっていた方々や、社会福祉の人、私の論文指導を私の状況を全て把握しながら励まして励まして、私が諦めそうな時にも私にすごいはっぱをかけて一緒に頑張ってくれた図書館の人、そしてたゆみない応援を続けてくださる日本人会の方々、沢山の方々がいらしてくださいました。私が一番うれしかったのは、この中の一人が言語障害を持っている息子さんをお持ちなのですが、この子が目をキラキラさせて「良くやったね!!良くやったね!!」と何度も言ってくれた事です。この子は私の演奏会にも何度も来てくれているのですが、いつも私が声をかけるまで端っこでもじもじしているのです。でもこの日は自分からぐんぐん私のそばに寄って来て、褒めてくれました。
金曜日(式典数々)
まず、家族と一緒にLocal Foodsと言うレストランで昼食をしました。地元無農薬農家の材料だけを使った料理を提供するお店で、私がヒューストンの近くで一番良く行く料理屋さんの一つです。
その後、卒業式の前日の色々な祝典がありました。
まず今年ライス大学から卒業する新・博士153人が、博士号を象徴するたすきを指導教授にかけてもらう、と言う儀式がありました。「このたすきはあなた方の修めた学業と、それによって得た知識を象徴しています。」と言うスピーチが校長から在って「はい、はい」と適当に聞いていましたが、いざ自分の番が来て舞台に歩いて行き、名前を呼ばれながらお世話になった教授二人にたすきをかけてもらった時、一瞬たすきで視界が区切られ、そしてたすきが目線を越してまた会場が見渡せるように成った時、新しく生まれ変わったような、不思議で嬉しい気持ちがしました。
その後は音楽学校の卒業生のための祝賀会がありました。簡単なサンドウィッチとケーキがふるまわれるだけなのですが、私はお世話になった色々な教授と大変楽しく会話が出来、嬉しかったです。ちょっと近寄りがたい存在だった校長先生も親しくお話しをしてくれました。
その夜は毎週金曜日教えている生徒ちゃんたちのレッスン。人生が中々辛い時のレッスンは本当に慰められました。嬉しい時のレッスンも、そういう思い出を胸に、感謝の気持ちです。いつもはジーパンの私がこの日はドレスだったので、びっくりされました。
その後家族とヴェトナム料理。ヒューストンはヴェトナムの外ではヴェトナム人人口が一番多いとされていて、美味しいヴェトナム料理屋さんが沢山あります。家族もフォー初体験!フォーと言うのは、米粉の麺を24時間牛の骨を煮込んで作ったスープに入れて、モヤシやバジルやライムなどと一緒に食べます。気に入ってくれたみたいです!良かった。
土曜日(卒業式)
天気予報では雨が心配されていたのですが、それが嘘の様なカラリとした晴天!しかも湿度も温度もヒューストンのこの季節では考えられないほど申し分ない天気でした。卒業式は暑さ対処も在って、朝の8時半からと早かった。10時半からは博士課程の人達とその参列者のために特別なビュッフェが用意されていました。オムレツステーションと言って、自分が好きな具を入れて目の前でオムレツを作ってくれるところとか、トリュフのリゾットとか、山盛りの果物(高いブラックベリーやラズベリーやブルーベリーが盛りだくさん!)とか、ローストビーフとか、クラブ・ケーキ(蟹肉のコロッケ)にとろーり卵を乗っけたEggs Benedictとか、予想を超えた豪華さでした。家族のほかに麻衣子さんと、ヒューストン日本人会の母的存在の亜子さんがご一緒してくださいました。
その後私はアメリカンマザーとAsia Societyの展示を見て、アジアの色々な屋台が出ている夏祭りを楽しみ、Common Bondと言うパリの外では一番おいしいフランス風パン屋さんでクロワッサンとサラダを食べて、その後野外劇場でヒューストンバレーの「マダム・バタフライ」を観ました。83歳で足が悪いのに、ジョーンは一生懸命全てを見聞きして楽しもうと、貪欲についてきてくれました。二人でとても思い出深い夜を過ごすことが出来ました。
日曜日(母の日)
私たちが大好きなフランス料理店に家族のみんなをご招待しました。本当に美味しいんです!
まず前菜のサーモンとホタテのカルパッチョ。中の白いのはきゅうりではなく、ホタテです。バルサミックヴィネガーとオスと岩塩で頂いています。
次にロブスターのリゾット。蟹みその様なおいしさ!美味しい物は万国共通ですね~。
それから主菜。チリアン・シーバスです。
次にブリ―と言うフランスの柔らかいチーズがカリカリトーストの間にサンドウィッチされた物。左にはちみつ、右にイチジクのジャムが添えてあります。
最後がデザート。濃厚なチョコレートのケーキにカラメルソースとベイリーのアイスクリーム。
美味しい物を「美味しいね~」と楽しみ合えるのは本当に幸せですよね。私も演奏会場を似た様な空間に出来れば、と思っています。
その後、Menil Collectionと言うヒューストンでも私が一番気に入っている美術館の一つに一緒に行きました。お昼で満腹してしまったので、夕飯は割愛!
月曜日(家族が帰る。夜は日本人会で演奏)
朝、家族を空港に送り届けました。昨日の夜食べる予定だったけど満腹で割愛したパリの外では一番おいしいフランス風パン屋さん、ヒューストンが誇るCommon Bondのクロワッサンとチョコ・クロワッサンとバゲットを開店と同時に入手してホテルに持っていったらとっても喜んでもらえました。
夜は日本人会で開かれた私も大変お世話になったOさんの帰国送別会に音楽を添えさせていただきました。こちらも素敵なイタリア料理店、Bisteccaです。
とても思い出深い一週間となりました。
さ、これから日本の公演の広報に本腰を入れます!ご協力をお願いできれば大変心強いです。
平田真希子ピアノリサイタル2017「天上の音楽 v.s. 地上の英雄」PDF ダウンロード