コロナ日記127:今までの人生から得た確信の備忘録

  • 今まで非現実的な楽観性に固執して来たトランプ大統領が急に「改善する前に悪化する可能性が大きい。マスクをしよう」
  • 過去6週間で、アメリカの軍内での感染率が3倍(現在2万人+)

「謝らせてください。君には気の毒だった。」

ブラックライブズマターからこっち、アメリカの社会構造的黒人差別と共に、もっと一般的な不平等にも色々と注目が集まった結果、私は謝られた。博士課程を修得した時、ある音楽大学で歴史の授業を担当させて頂くはずだったのが、最後の最後で流れた話しー「今から考えると、あれはそういう事だったのかと思う。」私を強く推してくれた教授が、不可解な事務からの反対圧力をそう説明して、代わりに謝ってくれたのだ。「君よりも資格のない人間が、君がするべき仕事をしている。でもこれからは女性雇用と、特に人種マイノリティーの雇用がもっと積極的になるはずだから...」自分はできるだけの事をする、そう言ってくれた。

でも問題は、不正を認めてもらえるか、謝ってもらえるか、ということではない。そして、私一人が私の培ってきた技術・経験・専門知識で食って行けるか否かよりも、もっとずっと大きい。社会の偏見のために自分の本領を発揮できずにくすぶっている人材が世界に何万人、何十万人いることか?

そんなことを考えながら読み始めたのがこの小説。面白い本だ。小説なのだが、やたらと脚注が多い。脳神経・生態学・心理学などあらゆる学問に昔から現代に至るまである性別偏見。古代哲学・宗教、社会学などから分かる女性のステレオタイプの成り立ちと仕組み。そして中世から現代にいたるまで男性のペンネームで研究や作品を発表した女性のリスト、そしては自分の研究や作品を男性にのっとられた女性のリスト。これらの脚注もフィクションなのかと思ったが、ググったら全部本当だった。

生涯くすぶっていた女流アーティストの死後、彼女が死ぬ前に3人の男性アーティストと協力して彼らのショーとして自分の作品を発表し、大成功を収めていたことが発覚。でも彼女はなぜ、名乗り出ることをせずに死去したのか...?興味を持ったジャーナリストが、彼女の日記やリサーチノートや関係者のインタビューをまとめたところ、彼女の分野を超えたリサーチと考察とメッセージが浮かび上がってくる。(日本語訳はまだ出ていません。)

現状は受け止めるしかない。私はそういう現状を客観的に把握した上でどうやって生きていくのか。ここで今までの人生の中で私が得た確信を二つ書き出してみたいと思う。

① 他人が何を考えているかは絶対分からない。

舞台恐怖症が一番ひどい時、私は一番多くの演奏会をこなしていた。キャリア面から言うとこれはあまり良いことでは無かったが、しかし舞台恐怖症克服のためには良かった。ツアー中は毎晩演奏する。吐いても下しても、どんなに震えても毎晩弾かなくてはいけない。苦しい。でも同時に、どんなに失敗しても、次の晩にもう一度チャンスがある、ということでもある。(ここで辞めたら私は一生何からも逃げる人間になる。舞台恐怖症を克服するまでは私は絶対辞めない。)そう決めていたので、頑張った。主観的には死の恐怖の舞台恐怖症なのだが、もう一つ辛いことが在った。演奏後、聴衆に褒められることである。「素晴らしい才能ですね!」「おめでとうございます。」主催者やお客さんやスタッフや、兎に角色々な人がお祝いを言い、握手を求めてくる。(この人たちは何でこんな事を言うんだろう?)(本当に私のミスタッチが聞こえなかったのか?)(可哀想に思って慰めているつもりなのか)...肩を掴んで揺さぶって尋問して見たかった。(本当はどう思っているんだ!)(正直な気持ちを教えて!)

...でもその時思い知った。他人が何を考えているかは絶対に分からない。分かるのは自分が何を考えているかだけだ。他人の考えを予測する時、予測の基盤は自分の考えだけだ。自分が自分の音楽に誇りに持てれば、どんな悪評も気にならなくなるはずだ。そして同時に、自分が他の奏者の演奏にいつもポジティブであれば、他の人も自分の演奏に対してポジティブだろうと思い始めるはずだ。

周りからの評価を受けていないとき、例えば今の私のように肩書が無い時、一番の危険性はそれを自分の正当評価として自信と誇りと向上心を失ってしまうことだ。自分は自分が持っているもの、オファーできるものの力を知っている。別に誇大妄想になる必要も、それを評価しない社会を恨む必要もないが、しかし私には何十年と蓄積してきた音楽家としての技術と専門知識と経験があるのは間違えない。それを大事に練習と研究を続けることの意義と献身に、誇りを持とう。色々な人が善意のアドヴァイスをしてくる。善意を受け止めて多いに感謝し、後は自分を信じよう。私を一番理解しているのは、私だ。

② 過剰評価されているよりは、過小評価されている方が自由。

過剰評価と過小評価を行ったり来たりするのは、音楽家や芸術家には当たり前なのかもしれない。私は10代後半から30代まで、沢山の方々の支援を受け、育んでいただき、演奏の機会も沢山頂いた。でも自信はどんどん無くなっていった。演奏会が増えれば増えるほど練習量が増え、兎に角鵜呑みに音を覚えるだけ。系統立てた勉強をする間も惜しんで練習したので、解釈に根拠もなく、子供の頃の延長線で勘だけで弾いた。それなのになぜだろう。「You are a great artist, and if you continue well you can be a profound one, someone whose very being gives meaning to others and defines for us all the purpose and beauty of humanity(君は偉大な芸術家だ…君は我々人類のために人間性の目的と美しさを定義し得る存在だ)」ー執筆中の本のために古い手紙を整理していたら、学部時代の先生の手紙が出てきた。仰天した。こりゃあ、舞台恐怖症にもなるわな。私はなにか、救世主か?...いやいや、ただのピアニストですよ。

裸なのに堂々と行進しなければいけない王様の辛さと寂しさを当時の私は知ったと思う。

今はあの時よりずっと自信と、自信を裏付ける根拠はある。私は舞台恐怖症を克服する過程で、演奏と言う儀式の社会的意義、人間の心理や生態、そして脳神経科学などの一般知識と、さらに自分の心身を管理する事を学んだ。学校に戻って、学部・修士時代にしなかった系統立てた勉強もやった。博士論文も書いた。人生経験も積んだ。でも、あの頃の半分も有難がられていない。今の私を見て「この人は人間性の目的と美しさを...」と言い始める人がいたら、その人は多分気違い扱いされる。

過小評価は過小評価で苦しみもある。悔しい。働き盛りの自分が勿体ない。稼ぎがなくて悲しい。情けない。音響の整った演奏会場で完璧に調整されたフルコンで自分の音世界を創り上げたい。

でも、喜びもある。本が思う存分読める。好きな曲を好きなように弾ける。こうして無責任に毎晩ブログを書ける。本だって書けちゃう!午後にゆったりヨーガができる。そして今のこの時間をいかに有効利用するかが、私がこの後いかに世のため人のためになる貢献に没頭できるかに繋がるはずだ。何より、周りに押し付けられた自分を演じ続けようともがくより、自分の思い描く自分を目指して修行する方がずっとずっと意義がある

どちらかと言えば、過剰評価よりは、過小評価の方がよい!やったね~!幸運に感謝!

3 thoughts on “コロナ日記127:今までの人生から得た確信の備忘録”

  1. 小川 久男

    お疲れ様です。

    ピアニストが演奏中に曲が途切れたりミスタッチしても演奏の味として捉えます。
    新解釈かも知れないなどと思いめぐらしたりして。
    抹茶椀のキズも数寄者はそれを味として愛でます。

    ミスタッチも気づかないなんてと思い上がらないでください。
    忠実な再現者ではないかも知れませんが、
    それは、譜面にない演奏者の味として愛でているのですから。

    小川 久男

    1. 小川さん

      ありがとうございます。
      仰る通り、思い上がりは危険ですね。
      そして、本当に美しい物は見えていない物・分かり得ないものに対する夢と希望かも知れませんね。

      真希子

  2. Pingback: 祝!改名「洒脱」日記128:祝!ユーチューバー真希子!! - "Dr. Pianist" 平田真希子 DMA

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