-
目覚めてから起き上がる前にまず色々考える。今日練習する曲の事。今日楽しみな事。昨日あったこと・交わした会話・美味しかったもの・感謝すること。そしていつもいつも、執筆の事は考えている。 起き上がる前にベッドの中でストレッチをする。上体を右に捻り、右ひざを曲げた状態で上体の左側に持ってくる。反対もやる。それから膝を回したり、自分の膝を赤ちゃんの様に抱えておでこに近づけたり、くねくねくねくね、布団の中でストレッチする。最近気温が低いので、布団の中がぬくくて、気持ちよい。 ベッドを去ったら、まず歯を磨いて、それからレモン水を作る。一個のレモンで1リットルほど作ってごくごく飲む。家の庭にはレモンがたわわになっていて、友人に配ってもまだ余って、どうしてよいか悩む。毎日一個は朝のレモン水で消費する。無農薬だし、皮の方が汁よりも栄養価が高い。と言うことで、レモン水を飲みながら、皮を刻んでお湯を注いでおく。 レモン水を飲んだら、運動着に着替えてジョギングに出かける。家から自分で何となく決めた2マイル(約3.21キロ)のコースは遠くにずっと山脈が見えていて、途中で公園やドッグパーク(犬と犬の飼い主専用。首輪を外して自由に走り回らせて良い砂場)があり、毎日変化に富んで面白い。山の色が毎日違う。くっきり青い山脈が見える時も、山頂が雲の帽子をかぶっている時も、なんだか木や草で緑色に見える時もある。公園もホームレスの人がジャングルジムのてっぺんで寝ていたり、ドッグパークの人が大げさに私に手を振ってくれたり、色々な事が在る。 帰ってきたら、体操をする。ストレッチやラジオ体操や、YouTubeと一緒にサーキットトレーニングなどをやる。その頃には汗だくになっている。どんなに寒い日でもちょっと動くだけで熱くなるなんて、身体ってすごい! 運動が終わったらシャワーを浴びずにはおられないくらい汗をかいている。シャワーを浴びたら、コーヒーを作って、ヨーグルト(フルーツと黒ゴマ黄な粉にそば粉やカカオやナッツを入れたもの)を食べる。最近洋梨が感動する美味しさ。汁が滴り、むさぼり食わないと汁がこぼれて勿体ない。熟した柿も脳を刺激する甘さ。どんなにグルメな食事も、熟れ熟れの果物には叶わないと思う。あまりの香りの高さ・美味さに、脳みそがぶっとんんで、我を忘れてしまう。食事が終わったらさっきお湯を注いでおいたレモンの皮のエキスを一日中お茶の様に飲む。レモンにはそれぞれ個性があって、レモン皮茶は爽やかでほとんど甘い時もあれば、苦い時もある。そういうのが一々、面白くて愉快。 レモン皮茶をすすり飲む頃には練習したくてうずうずしている。ゆっくりとウォームアップから始める。呼吸と姿勢が自然と整ってくる。全ての感覚に意識が澄み渡る。色々な事が自明となってくるような気がする。 最近、練習中に毎日思い出していることが在る。もう20年近く前の事だけれど、鮮明に思い出される。私はカウンセリングをかじったことがあって、その勉強会合宿での出来事だった。先生が生徒のカウンセリングを例として行うのを観察する、と言うフォーマットの時の事だ。生徒は少女の様に体が小さくてかわいらしい20代のソーシャルワーカーだった。彼女は、社会にも家族にも見捨てられた孤独な一人暮らしの老人の多さに困惑し、怒っていた。でも自分一人ではどうすることもできない。どんなに頑張っても追いつかないほどこういう老人が多い。彼女は泣き始めてしまった。カウンセラーはずっと聞いていたのだけれど、彼女がひとしきり泣き終わったところで、二人共立ち上がらせた。そして「それじゃあ、あなたはこれから私の体を思いっきり押してください」と言った。少女ソーシャルワーカーが「へ?」と言う顔になると「私を無関心な社会の体現だと思って、怒りを込めて私の体を腕で思いっきり押してみてください。」と言ったのだ。ソーシャルワーカーは「そうですか、それでは」と言う感じで、始めはしょうがなく、照れた感じで先生の肩を両腕で押し始めた。先生は体格の良い50代くらいの女性で、少女ソーシャルワーカーの2倍くらいの体重が在ったと思う。10秒くらい経った頃からソーシャルワーカーはだんだん気持ちが入って来て、顔を真っ赤にして「わ~~~~!!!」声を上げながら先生の体をぐいぐい押し始めた。先生がどんなに足を踏ん張っても踏ん張り切れない強さだった。先生が後ろに転がってしまうくらいソーシャルワーカーが押しまくるので、先生が「よし、よし、ちょっと方法を変えましょう。」と途中で止めた。「両腕で押すのはやめて、今度は右手の人差し指に怒りを全て込めて、私の左肩を指一本で押してください。」皆、ちょっと失笑と言うか(それで本当に発散できるかな~?)と言う雰囲気が漂った。でも少女ソーシャルワーカーはすぐさま人差し指で先生の左肩をグイ~と押し始めた。先生が「気持ちの全てを指に込めて!」と言ったら、ソーシャルワーカーは汗を一杯おでこに浮かべてと口を大きく『へ』の字にして、静かに涙をだらだら流し始めたのだ。今書いていて、私も涙が出てくる。 私も、最近毎日練習しながら、気持ちの全てをそれぞれの指先から鍵盤に伝えようと思って弾いている。言ってもどうしようも無いこと、他の人に分かってもらえない事、変えられない事が沢山ある。過去の傷。世界の不公平・不平等。皆、それぞれの立場で、やるせないことを沢山抱えて、生きている。何がどうやるせないかと言う物語の詳細ではなく、そのやるせなさにお互い共感することで、お互いを勇気づけ慰める—それが、音楽であり、文学だと思う。それが、人間性だ、と思う。
-
誕生日を迎えました。 音楽家として、私は物質的豊かさよりも体験を優先したいと思って生きています。思い出と言うのは重要性が高い。記念日はしたことの無い経験や非日常性で、思い出深いことをしたいと思っています。いくつになってもお誕生日や祝日を手放しでお祝いしたい、と思います。 ...と言うわけで、Descanso GardensでEnchanted Forest of Lightsと言うホリデースペシャル期間限定の光のお祭りに行ってきました。行った事のある人から「映画『Avatar』のシーンの様にハイテクの照明効果が楽しめる。」と聞いていましたが、想像を超える大規模なものでした。普段は植物公園なのですが、11月の感謝祭の前から新年まで、毎年恒例でやっています。ライトショーや、触れたり乗っかったりすると反応する発光器具が、音響や霧など他の特別効果と一緒に広い公園中に工夫とテクノロジーを尽くして、配置してあります。Hot ciderと呼ばれる、これもアメリカホリデーシーズン特有のアップルジュースにシナモンなどを加える熱い飲み物で手と体を温めながら一時間じっくりと楽しみました。 本当に凄かったのですが、帰りに野の君と交わした会話が一番面白かったかな?「もう一度したいと思える体験と、一度で満足する体験の違い」と言う題目です。ライトショーは確かに感心したのですが、数日後に外国から来るお客様をお連れしようかと言う話しが出た時(もう行きたくない)と思ってしまったのです。物珍しいし、サービスとしてはお悦びいただけると思うのですが、私たち自身が二度と観たいとは思わなかったのです。 こだわりや芸術性が無い訳では決してない。例えば様々な模様のランプシェードが3D の影を広げていく趣向は、奇抜な世界観が提示され「良い仕事してますね~」と言う感じでした。 何度でも食べたいお料理や味が在る一方、楽しく美味しく食べても二度と思い出さない食体験もあります。音楽や読書体験でも同じく。この違いは何か?なんでこのライトショーは二度と観たいと思えないのか? ライトの中で楽しくはしゃいだ後、思いがけず深~い美学の会話をしてしまいました。素敵な誕生日でした。
-
春先から公共図書館との契約でレクチャーシリーズを提供している。支部によっては電子ピアノだったり、グランドがあったり...臨機応変に電子ピアノの場合は説明の補助に音を出し、簡単な短い曲や曲の抜粋を弾く程度。グランドの時は講義内容に沿った曲を披露したりもする。お客様も一番少ない時は10名に満たない時もあったし、多い時には立ち見が壁に引っ付く状態で60名とか入る。非常に貧しい地域も、非常に豊かな地域もある。CDがバンバン売れる時もあるし、帰ってみるとインスタグラムのフォロワーがバッと増えている時もある。「自分は90歳を超しています」と自己紹介してくれる方もあられるし、昨日は2年生(8歳)の男の子がお父さんに連れられて来てくれた。 昨日の支部は運転して一時間弱。「天上の音楽:聞こえない音楽」と言う題目で電子ピアノとパワポでのプレゼン。 途中で音楽が人間の生態に及ぼす影響などの言及でセラピー効果なども説明中に、眼鏡を取って泣き出した年輩の女性が居た。本人がうずくまって顔を隠したので取り合えず見て見ぬふりをしたが、終了後彼女が最近弟さんを亡くされたこと、音楽の治癒効果に感極まってしまった事などをお話ししてくださった。「そうだったんですか…涙されているのは気が付きましたが…」と返したら、隣にいた彼女の友達が「私だって泣きましたよ!」と唇をとんがらかす感じで訴えてきた。なんだか幼女の様で愛らしくて、ちょっと笑ってしまった。嬉しかった。 昨日、目覚めがけに夢見心地に突然「余命が後一年だったら...」と思い始めた。そしたら思いがけないことに、ものすごい解放感を感じる自分が居たのである。今実は執筆中の本で「自分の事を書いたら名誉棄損で訴える」と言ってきている重要人物がいる。余命一年ならそんなことを心配せずに何でも書ける。しかも絶筆のPR効果でもっとたくさんの人に読んでもらえるのでは...と思ったのである。そして余命一年なら人生の優先順位が否応なしにはっきりしてくる。素晴らしい!色々な悩みが一挙に解決! 今朝は起き掛けの夢でスーツケース一杯の現金をもらった。ここでもまたお金の心配が無かったら執筆と好きな曲の練習に集中できる...と人生の優先順位の明確化に頭が行った。 明日は誕生日。人生の節目。色々考えています。
-
10月の下旬にブータンに行きました。 色々見聞きし、感じ考え、涙も流し、帰って来て、この貴重な体験をどうこれからの私の人生・活動に役立てれば良いのか…言葉にできないもどかしさを、日常の忙しさで覆い隠しながら、悶々と3週間が過ぎようとしている時、運命的にあるエッセーに出会い、ブータンでの自分の想いと共鳴するのを感じました。 まず、自分の復習も兼ねて山極教授のエッセーを、下にまとめてみます。 人間の脳をゴリラの3倍の大きさにしたのは言語ではなく、共同体の大きさ。 霊長類は脳の大きさと生活共同体の大きさが比例している。例えばゴリラは10匹の共同体に適した脳の大きさ。人間の脳の大きさは約150人の共同体に匹敵する。 (『ダンバー数』説) 人間の脳が大きくなり始めたのは200万年前、現代人並みの脳の大きさになったのは40万年前。言語出現は7万年前。 人間の脳を大きくしたのは、多数の仲間の状況や事情や気持ちを理解する共感力。 (社会の複雑性に対応する能力。) 大きな脳と大きな生活共同体を必要とした背景の事情 二足歩行と共に霊長類が住む安全で食糧法府な熱帯雨林を離れ、危険が多いが遠くまで見渡せる草原で暮らし始めた。 草原は雨林と違って隠れる場所が少なく、危険性が高い。食肉獣に幼児が多数捕食され、子だくさんの必要性が出る。 離乳を早め、女性が出産後すぐ妊娠できるようにする。 人間の赤ちゃんは共同育児するようにできている。 泣いて自己主張(ゴリラの赤ちゃんの様に四六時中抱いてもらえるには人間の赤ちゃんは重過ぎる=ゴリラの赤ちゃんは泣かない) 親でなくとも人間が赤ちゃんに語りかける声は音楽的で、文化や言語の違いを超えて共通のトーンを持つ。絶対音感を持つ赤ちゃんはそれを聞いて、安心する。(出典が知りたい!) 近年の情報革命は、共感力や情緒を置き去りにし、人間社会をサル化している。 私がこの記事を何度も読んだりシェアしたりしたので、今度はグーグルのアルゴリズムが山極教授の別のエッセーを私に提示してきましたた。情報革命と人間らしさの矛盾について言及しています。 故・今西錦司による生物の定義──「生物とは時間と空間を同時に扱えるもの」 言葉の発明が人間と動物の間に一線を引いた 言葉は、時間と空間を超える抽象性を持つ。 他人とのつながりを拡張するポテンシャル 情報革命=情報を扱う脳と、五感で共鳴する体の分離。 体験を簡略化する情報(言語を含む)で脳の巨大化が止まった。 言葉を持たないネアンデルタール人の方が人間より大きな脳を持っていた。 言葉は記憶を外部化する。 AIは思考を外部化する。 人間はデータに動かされる存在になってしまう!? 情報技術は情緒を削いでいく。 情緒(『曖昧さ』)を曖昧なままで了解するのが異種間のコミュニケーション(=「音楽は世界の共通語」!?) 分かり切っている物には興味が湧かなくなる。 AIは西洋思考の到達点であり、臨界点。 「我思う、ゆえに我あり」ではなく「我感ずる、ゆえに我あり」(今西錦司や西田幾多郎) 頭だけでなく、身体性を持って考える存在。例) 人が汗をかく場合、暑いと思ったから汗をかくわけじゃなくて、身体が暑さに反応して汗をかくから、脳が暑いと思う。 西洋文化では客観を重んじるが(その典型が数学)主観と客観、知性と感性、脳と体、人間と外界は、2分化できるものではない。 2分化の結果が環境破壊!? 2分化の結果技術的進歩は在ったかも知れないが、それは「進化」だったのか?人間はゴリラより幸せとは言えない。 更に私は、Prof. Juichi Yamagiwaの世界的貢献を知りたく、英語で検索してこのTedExを見つけました。 この「人間の暴力性はどこから来るのか」を問うプレゼンでは、山極教授は人間の暴力性とは仲間意識の結果、仲間に対する共感と、仲間以外の同種に対する敵対心が生んだものだとしています。200万年前に狩猟のための武器の発展と共に共同体と共同体の間での戦が始まったと言う主流の考え方は間違えであり、50万年前に農耕が始まったのと同時期に武器が人間同士に使われ始めたと主張している。人間同士の暴力の歴史がこれだけ浅いのだから、人間の本質に暴力性はない、と言う主張です。 人間の暴力性はどこから来るのか...私が最近ずっと悩んでいることの一つです。音楽に関する脳神経科学の研究結果を見る限り、人間と言うのは理想的に社会的な生き物に見えます。体の動きや生態リズムをシンクすることに快感を覚え、声を合わせてハモルことで「愛情ホルモン(オキシトシン)」を分泌します。でも、アメリカの音楽業界で人種差別を受ける非白人音楽家の数は63パーセント、セクハラの被害者になる女性音楽家は67パーセントと言う統計結果があります。毒親、いじめ、痴漢行為、強姦、幼児虐待、家庭内暴力...日常的な例だけでも、人間の非共感性、そして暴力性の例は後を絶ちません。更に歴史を見ていると人間は同じ宗教でも宗派が違うだけで戦争をし、想像力豊かな拷問をします。様々な拷問の方法を読んでいると心底情けなくなります。(どうやったらより相手が苦痛か)と言う非生産的で、悲しい想像力を発揮したクリエイティビティ―です。なぜ人間はそこまで残酷になれるのか? 山極教授は、人間が道具を人間同士の殺戮のために使い始めたのは非常に最近の事であり、霊長類や猿人類にそのような特性はないと主張しています。が、私が最近見たジェーン・グドールのドキュメンタリーではチンパンジーのグループ間での殺し合いに至る戦争が鮮明に映像化されていました。さらに、下のドキュメンタリーの抜粋ではチンパンジーの雄の9割が生涯に同種の殺害に携わるとした上で、やはりチンパンジーのグループ間での戦争をドキュメントし、共食いの画像も出しています。山極教授のご専門はゴリラと言うことで、チンパンジーやボノボ(下のドキュメンタリーでチンパンジーよりずっと温厚な霊長類の例として出されていますが、それでも3パーセントの雄が他のボノボを殺すそうです)はゴリラとは違うのかも知れませんが、山極教授の人間の暴力性の由来に関する一般的な論点には疑問が残ります。 暴力の由来の明確化はここでは無理ですが、私は山極教授の「人間らしさ」に関する発表が、自分の「Dr.ピアニスト」としての音楽でより幸せ・健康・仲良くなることを提唱する活動と多いに共鳴していて、大変勇気づけられました。更に、ブータンでの旅行に関して色々思いました。 ブータンは、経済発展や技術発展よりもGNH(Gross National Happiness 国内総幸福量)を国勢の指針とする、と打ち出して世界の注目を浴びている国です。ブータンでご一緒したガイドさんの話しによると一年に一度調査員が家庭訪問をして、一人一人に2時間半に及ぶ「幸福度チェック」インタビューを行うそうです。質問の内容は健康度(通院回数・精神疾患の有無、家族の介護など)、生活習慣(規則性、食事内容など。国民の平均睡眠時間が毎晩8時間以上と言われたのがとても印象的でした)、社交度(家族と一緒の食事の頻度、地域貢献にかける時間、など)、宗教活動、経済状態など広範囲に及ぶそうです。外国人相手のツアーガイドと言う、ブータンの生活習慣に全くそぐわない職業についていてるガイドさんは、親戚の集まりや祝日などに顔を出せない事が多く、「どうしてお前は家族や友情よりもキャリアを優先させるんだ」と不思議がられる、とこぼしていました。 ブータンでは損得勘定ではなく流転の哲学で色々な物ごとが動いていました。例えば、そこら中に色とりどりの旗にお経が書かれた旗の様なものが翻っています。谷底とか、川の上とか(どうやってあそこに?)と言う所に沢山かかって居るのです。旗がほつれていずれは風に吹かれて跡形もなくなった時、旗に込められた祈りやお経が天に届くと信じられているので、特に強風なところに好んで旗をかけるのです。 駄菓子屋さんで、色々な見慣れないお菓子に一々興味を持ってぺちゃくちゃ日本語でしゃべる私たちに、お店の人が無料サンプルをくれました。にこにこして、本当に気前が良いのです。 そして砂曼荼羅を川に流すと言う儀式も、私たちは見学させて頂きました。沢山のお坊さんが総動員で長い時間をかけて描きあげられた色鮮やかな砂曼荼羅は、完成したらすぐ、川に流されます。諸行無常の象徴と言うのは分かりますが、本当に惜しげもなく、捨てるように川にササ!ササ!と流していました。大切なのは、物や情報ではなく、体験や交信であるーまさに山極教授のおっしゃっていることを体現実行しているかのようなブータンです。 ブータンがGNHを打ち出したのは、国際政治のためだ、と言う側面についても伺いました。ブータンはインドと中国に面する弱小国です。更に宗教を同じくするチベットともライバルの様な複雑な過去があります。いつ乗っ取られるやも知れない。そこでGNHで知名度を上げ、世論を味方につけたのです。しかしこのGNHがここまで世界の注目を浴びるのは、やはり現代先進国社会の悩みに対する理想をGNHが掲げているからではないでしょうか? 技術的な進歩が人間をゴリラより幸せにしているか疑問視する山極教授。そして経済的発展が経済大国をブータンよりより優れた国家にしているか疑問視するから、私たちはブータンにここまで憧れるのではないでしょうか?
-
「外からの力が加わらない限り、静止状態の物は静止を続け、動いている物は動き続ける」…慣性の法則を学校で学ぶのは何年生なのでしょうか? 私は日本の教科書で日本語でこの概念を学び、妙に感心した記憶があるので、渡米した中二の一学期の前なのは確かです。 子供時代から本の虫だった私は、静止状態がデフォルト。引っ込み思案や病弱だったり、子供の一人遊びにはいささか治安が不安な香港で幼少時代を過ごしたり、更には日本に帰国した6歳半の時にはすでに一日2時間くらいピアノを練習していたり...様々な要素が私の静止状態に輪をかけたと思います。 ヒューストンで博士論文執筆とストーカーの刑事責任追及を同時進行でこなそうと悶々としていた時に、ジョギングを勧めてくれたのは野の君です。渋る私を「気分が晴れるから」と、海岸や公園に誘い出てくれました。ヒューストン時代の最後の一年半は毎朝2マイル(約3.22km)走るのが日課になっていました。家の近くのバイユー(ゆっくり流れる小川)に沿って、毎朝同じコースを走っていました。週末は3マイルとか5マイルとか走ったりもしてました。 最近の旅行続きが一段落した今、また朝の運動で一日に勢いをつけるべく、走り始めて今日で6日目。敢えて同じコースを2マイル走ります。同じ木が日に日に赤く色づいていきます。朝もやがかかった日もあります。息が上がり、足の筋が伸び、体幹や姿勢に意識が行きます。体中の血のめぐりがリズムに乗り、汗ばんできます。遠くの山に朝日が映えて、その日一日が楽しみになってきます。




