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時々、曲にとりつかれる。 過去に弾いた曲の時もあるし、まだ弾いてない曲の時もある。 急にその曲の事がいつもありありと頭や耳や心の中で思い描かれるようにある。そういう自分に気が付く。(この先、どういう風に展開するんだっけ)と気になり始めて、楽譜をチェックしなければどうにも気が済まなくなる時もある。肉体的に弾きたくて弾きたくて体が疼くような状態になる事もある。(この曲を弾かなきゃ表現できない自分の一部があるんだ!)と焦燥感に駆られるようなときもある。 ここ一週間以上私が取りつかれているのがスクリャービン作曲、エチュード作品42-5(1903)。 自分でも意外。なぜ、今、この曲? 「幸せの国」ブータンから帰って来て、直後に行った二つの出演も大変好評のうちに終わり、全てが順調で、今までの人生の中でも絶好調と言っても良いこの時期に、なぜこの不穏に激しいロシアの練習曲? 一つには執筆中の本が在る。 「You only scream when you are finally safe(やっと安全だと思った瞬間人は初めて悲鳴を上げる)」。最近読んだ小説の一文。転校して、受け入れられたい一心でパーティーで泥酔し、気が付いたら輪姦されていた14歳が、大人になってトラウマを埋蔵するべく必死に演出する完璧な人生...筆者の実体験に基づいた「Luckiest Girl Alive(一番幸せ)」。 「やめて」と頼んでも現状を変えられない情けなさ。 「痛い・悲しい・辛い」と訴えても「そんなはずはない」「恩知らず」「被害妄想」「ひがみ」と軽視されることの辛さ。 「こんな被害があった」と言っても信じてもらえない不穏。あるいは「過ぎたことは忘れろ」 「それくらいで済んで良かった」 「感謝しろ」「もっとひどい不幸がある」と、同情・共感を拒まれるやるせなさ...強行スケジュールの中休みに一日ゴロゴロしながら 341ページ 一気に読み切った。私も、この筆者と同じく、幸せになった今だから本を書こうと思えるのか。今、公私共に安定しているから初めて、過去に在った色々を感情を伴って振り返り、整理し始めているのか?だから、今、この曲なのか? この「Luckiest Girl Alive」を読んだのには、私が自分の本に関して再考しているから。始めは自分がいかに舞台恐怖症を克服したかと言う経験に基づいたハウツー本を書くつもりだったのが、書き進めるうちにどんどん自伝的回想録の体を成してきていた。が、私の知人や加害者のプライヴァシーの問題、さらに一体どこまで自分の過去の詳細をシェアする必要が自分の執筆のそもそもの目的に叶っているのか、悩んでいる時に出会ったのが水村美苗著「日本語の亡びる時ー英語の世紀の中で」。ブータンからLAに帰るまでの道中で3分の2を読み、帰ってから時差ぼけ解消しながら熟読した。この本は私がなぜ、何を、何のために、どのように書くのか、自問自答する糸口をくれているような気がする。 「日本語の亡びる時」で一番開眼だったのは、何語のどんな語彙で書いても客観的事実は同じと言う自然科学が在る一方、言語や言葉の選択で視点もストーリーも結論も変わってしまう文学がある、と言う事実。著者はさらに、「文学でしか明らかにできない真実がある」とした上で、世界には通用しにくいけれども日本語文化は推奨するべきだし、さらには世界的な弱小言語の庇護・援助を援護するべきだと言う論点で「日本語の亡びる時」を書いている。私は日本語は非常に美しい言語だと思っている。13歳以降の在米にも関わらず日本語の読み書き・会話が問題なくできるべく、誇りをもって努力をしているので、例えば日本に明治維新以来現在に至るまで「英語公用語論」が在ると言うことをこの本を読むまで知らなかった。そして言語の優勢・劣勢の背景に政治・国勢が大きく影響していることを何となく感知はしていながら、例えばインターネットなどのテクノロジーが近代いかに英語の支配を巨大化しているかと言うことにも、考えが至っていなかった。 私がスクリャービンの作品42-5に今取りつかれているもう一つの理由。 夏以降ずっと旅行と本番が続いた。いつも次の旅行まで、次の本番まで、と飛び石を一つずつ飛んでいくような感じでこなしていた。規則正しい生活は、時差ぼけや、飛行機の発着時間の合間には無理だ。 家に帰ると衝動に駆られるまま一日中、わき見もせずにコンピューターに向かって執筆したりする。あるいは体が急に休憩を要求して来たりする。腰に鈍痛が残り座っても立っても違和感が走り、結局寝っ転がった姿勢で一日中本を読みふけったりする。そしてそうしている間にも次の旅行、次の本番がメールや登録や広報や打ち合わせや、色々な事務的要求を送ってくる。そうこうしていると、また次の旅行・次の本番で、腰の鈍痛などと言っていられなくなる。請求書・領収書・郵便物・手洗いの洗濯物が、頭の中の思い出と共に、整理されないまま山積みになっていく。 それが急に終わったのだ。この最後のバンコク・ブータン・中国の旅から帰って来たのが10月25日(金)の夜11時。その翌日の午後3時からと、そして翌々日の正午からの本番をこなして、これから数か月は急に旅行が無い。そう思ったら突然気が抜けてしまった。今日こそ溜まっていた整理整頓を始めようと毎日思うけれど、一日が終わってみると何も手を付けていない。唯一スクリャービンだけを暗譜して、そのほかGodowskyの左手のための「哀歌」とかラフマニノフの「哀歌」とかそういう曲ばかり弾いている自分が居る。そして書くことについて考え、参考になりそうなものを読み漁り、食べたい時に食べ、パジャマのままで自堕落な毎日を送っている。こういう自分はあまり好きでない。私は一生懸命ゴールに向かっている自分が好き。じゃあ、私の究極的な人生のゴールはなんなのか。 私が成し遂げたいことは、自分が成りたい自分になる、そして世の中のより多くの人がそれぞれ皆成りたい自分に成れる社会を提唱する、と言うこと。その為にはお互いへの尊厳と正直なコミュニケーションが取れる健康な人間関係が必須だと言うこと。優勢に立つ人間の独断と偏見の押しつけと、その結果の冒瀆は、健康な人間関係を根本的・社会的に脅かし、個人の自信と生産性と社会的貢献度を下げ、最終的に社会的損失になっていると言うこと。いかにこれが悲しいことか、と言うこと。 スクリャービンの曲は「暗い」「絶望」と言う感じもするけれど、逆に「焦燥感」「あふれ出てくるエネルギー」「大きな噴火が始まる前の不穏」と言う風にも取れる。私には言わなくてはこれ以上進めない事が、お腹の中でとぐろを巻いている。私は表現する運命なのだと思う。言わなくては居られない。面倒に感じることもある。忘れてしまいたい、無かったことにしてしまいたい時もある。でも言うと言う行為に関する思いががここまで大きく自分の意識を占めていると言う事はやはり言わなくてはいけないんだと思う。 今まで、次の飛び石だけを見ながら進んできたけれど、急に遠くの山に視点を据えて山越えを始める感じ。ローマは一日にしてならず。これからの時間を大事に一日一日、一歩ずつ進歩していく。そして成りたい自分に成る。
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最近、旅行が多いです。 プロとして乞われて行く音楽活動の旅行もありますが、自分の模索の旅もあります。何を模索しているかと言うと... 音楽の社会的役割 音楽と人間性の関係 音楽と幸福感(向上心・充足感・自己肯定感)の関係 自分の持つ技術と知識と気持ちをどうやって使えば一番世のため人のためになれるのか。 私が感じる西洋音楽の伝統の歪みをどうやって受け止めてこれから活動していくのか。 まず、「私が感じる西洋音楽の歪み」について簡単にご説明します。 18世紀半ばにファインアーツ(純粋芸術)なるものが確率され、大衆芸術(いわゆる娯楽)や応用芸術(工芸:実際に日常生活に役に立つ作品)に対して、「美の追求のためのみに存在する芸術」と定義されました。絵画・彫刻・建築・詩に並んで音楽がこのファインアーツの一部となったことが、私が言う「西洋音楽の歪み」の根本です。 娯楽性や生活への用途が無い音楽は、自分自身を正当化するためにエリート主義に走ります。歌詞やタイトルなどの分かりやすさが排除されていき、抽象的で困難であればあるほど高尚だとされます。器楽曲(ソナタや交響曲)が一番抽象性が高いとされ、こういうジャンルでもどんどん音の密度が高くなり、曲がどんどん長くなります。私は一生これらのジャンルを勉強して来たものとして、例えばベートーヴェンのソナタにはそういう媒体でしか到達し得なかった美や精神性があると思っています。でも、エリート主義には二つの危険性があります。排他主義と「裸の王様」現象です。「これが分からなければお前は価値がない」と言う主張ー「分かります!素晴らしい!」と言うことを強要する押しつけがましさです。こういうエリート主義の副作用として、クラシック音楽史と現業界での人種差別や女性蔑視、さらにはその結果としてのパワハラやセクハラの横行がある、と私は#MeTooなどの活動を通じて主張しています。さらに、帝国主義的な文化のヒエルアーキ―の押しつけの背景には一神教が在ると考えています。そして、西洋化が進む単一民族国家に於けるこういう歴史的背景の影響と言うものの一つとして、日本でのいじめや毒親と言った社会現象があるのではないかと思っています。 私がこういう見解に至ったのは、2017年に取得した博士号のための論文リサーチを通じてです。つい最近の事です。自分のリサーチで始めて知ったこういう背景を受けて私は「東洋人女性として、自分はピアニストを辞めるべきではないか」と悩みました。が、脳神経科学に於ける音楽の効用の研究に携わる事で、「世界の共通語」としての音楽、そして音楽の治癒効果を確認でき、自分の今まで受けてきた世界的教育と、奏者としての経験、そしてその結果持つ自分の技術を世のため人のために役立てよう、と決めました。 ここで私が言う「音楽」は西洋クラシック音楽を含む、全ての音楽一般です。でも、私は「クラシック馬鹿」として3歳から今までずっと西洋クラシックだけを朝から晩まで検証・修行して来たので、他のジャンルを全く知りません。例えば私はU2のボノに会った事が在るのですが、彼が誰だか全く知りませんでした。そして世のため人のために自分の経験と技術を活かしたいと言っても、本当に音楽馬鹿なので、社会のニーズを勉強するところから始めなければいけません。 その模索の一環として、2017年に日米リーダーシッププログラムへの参加をし、今回はそのご縁でブータンに10月18日から23日まで同行いたします。ブータンはGNH(Gross National Happiness国民総幸福量)を政策の中心に据える国家です。特に伝統文化はGNHの柱とされ、国家を挙げて伝統文化を守る事に力を入れているそうです。その一方、1999年以降それまでの事実上鎖国状態が解除されて以降、若者の伝統文化離れが悩みの種でもあるそうです。(参照文献) 近代化が進む中、学校教育に音楽などの情操教育が取り入れられたそうですが、インターネットで出てくる情報を見ていると主に教育されているのは西洋音楽の様です。2005年に設立された国立音楽学校もあります。NPOとして運営され、主に幼児教育に力を入れているようです。なぜかどちらにも日本人教師の名前が圧倒的に多いです。 西洋音楽は教育しやすいです。まず、歴史的に一番最初の記譜法を確立した音楽様式だ、と言うことがあります。(注:メソポタミア文明などにはまだ解読不可の記譜法が在ったと言う形跡もありますが、西洋音楽の記譜法は備忘録ではなく、その音楽を聴いたことが無い物が記譜法だけで音楽を再現できる、高度なシステムです。)多くの伝統音楽では音楽は口承文化です。このやり方だと教育と伝統継承が難しいのです。西洋音楽が他の音楽に比べて強い理由の根本はここにあると思います。次に、楽器が世界的に大量生産されているため、比較的発展途上国に出荷しやすいと言う事実あります。教育者に関しても同じく、です。問題は私が最初に提唱した西洋音楽のエリート主義です。西洋音楽とその土地の伝統音楽が共存しにくい場合がある、と言うことです。例えば国立音楽学校のサイトには生徒の演奏のヴィデオがいくつかありますが、「エリーゼのために」や「Over the Rainbow」と言った西洋音楽ばかりです。 私は、ブータンでは教えて頂く人になりたいと思います。伝統音楽を始めとする伝統文化に触れ、ブータンの生活の中に生きる習慣に美学を学び、文化と社会、国民性、個人のアイデンティティーと言ったものの関係について再考したいと思います。頼まれれば喜んで自分の見解や音楽を提供いたしますが、それぞれのジャンルの音楽が自尊心を持って発展していくために、音楽の植民地化を避けるために自分ができることは何か、しっかり考えたいと思います。
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水曜日の朝5時に家を出て、木曜日の夜11時過ぎに帰って来る、実質41時間のシアトルへの旅を振り返ります。 去年の7月にUS-Japan リーダーシッププログラムでシアトルに一週間滞在して以来、シアトル行きは5回目です。今回も「音楽でチームビルディングとリーダーシップ!」ワークショップをさせて頂くことを主な目的として行きました。 お昼前に空港に到着。紅葉が始まって美しいUniversity of Washingtonのキャンパスに直行。DxArtsと言うデジタル技術と芸術を総合させる研究所のThomas Deuel助教授にお会いして来ました。ジャズトランペット奏者、作曲家、音響彫刻芸術家...色々クリエーティブな活動もされていますが、プリンストンとハーヴァードで脳神経科学をお勉強なさった研究医でもあられます。この方のEncephalophoneと言う機械を見せて頂きました。脳から発信される電極を読み取り音に変換する楽器です。全身不随の方でも音楽演奏が楽しめるようにと、開発されました。 色々な分野に同志が増えていくことには本当に勇気づけられます。 夜はシアトルでの新しいお友達のお家にご招待いただきました。音楽愛好家や音楽進路希望者の方々がお集まりくださり、軽食を囲んで音楽談義をした後、演奏を少しだけご披露させて頂きました。シアトルにも音楽友情の輪が広がっていき、嬉しい限りです。 翌朝はメールや執筆などの作業。Airbnbのアットホームな居間で作業が捗ります。コーヒーのおもてなしが寝不足の頭にありがたいです。外は霧雨。シアトルはサンフランシスコに負けないくらい坂が多いのですが、お蔭で景色がきれいです。 午後はワークショップです。クライエントのプライヴァシーもあり、あまり詳細が公開できないのが残念ですが、活発な意見交換と参加者のクリエイティブな反応に笑いと感動がいっぱいの実に濃い3時間でした。 4時にワークショップが終わり、そのまま空港に直行して7時の飛行機。帰宅は11時過ぎ。就寝は12時。バタンキュー。
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昨日の夜は、私がコンサルを務めさせて頂いているCPAM(Center for Performing Arts Medicine at Houston Methodist Hospital)の音楽療法士やアート療法士などとの夕食会に誘われ、夜の11時まで楽しく語り明かしてしまった。脳神経科学の研究も進んでいるし、音楽療法士と言えば引っ張りだこかと思いきや、まだまだ世論は偏見と無知から脱出していないらしい。「アニマルセラピーと比べられちゃったりするの。ペットの力を否定しているわけではないけれど、私たちは何年も猛勉強して、試験に受かって、認定を受けたプロなのに...」と言う愚痴を聞いて、厳しい現実に結構びっくり。更に、死ぬ間際の患者さんや、精神疾患の患者さんと一対一でやったりすると、見学者がショックを受けるような事件も多いらしい。でも楽しい話しも多い。痛み止めの副作用ですごい便秘に苦しんでいる患者さんにリラックスしてもらおうとギターを弾いたら急に脱糞!患者さんが「奇跡だ!奇跡だ!」と大喜びする様を表情豊かに再現してくれる音楽療法士にテーブル中が大爆笑。(注:この患者さんは「音楽療法のパワーを知ってもらうためにこのお話しを誰にしても良い」とお墨付きをくださったそうです。ただし、この音楽療法士さんは、「なぜギターで便秘が解消したのか科学的説明ができないし、再現性のある効果と言う保証もないので、就職面接ではこの話しはしない」そうです。) そして今日は7時半からの朝食ミーティングに出席するため、宿を出たのが朝6時45分。う~ん。疲れてきたぞ! 今日印象に残ったのは、癌患者の放射能治療の現場に、画家が入り込んで、ロビーや点滴治療の前に目の前で絵を描く、と言うもの。これを8週間続けたそうです。明らかに雰囲気が和み、患者さんのストレス解消や苦痛改善につながり、さらに患者さんに「絵筆をちょっと持っててください」とか「絵具を合わせてください」とか「この花の色を塗ってください」などと少しずつ参加してもらうことで患者さんが治療以外に集中することができ、自信にもつながり、非常に良い効果が出たそうです。更に、癌治療を受ける患者さんはご老人が多く、ご老人は話し相手が少ない日常生活の中で通院を始めると看護婦さんを世間話の相手にしてしまう傾向が在るのですが、絵描きさんが入る事で看護婦さんが自分の仕事に集中できるようになり、看護婦さん自身のストレス軽減につながり、予期せぬ副作用になったようです。 今日良く分かったことを簡単にまとめます。 医療現場に芸術や音楽を取り入れることで「病気を治療する医療」が「人を治療する医療」に代わる。患者さんのストレスや苦痛が軽減し、痛み止めの処方も入院日数も減り、治療への積極性が見られるようになる。 医療スタッフのストレス軽減につながり、燃え尽き症候群で辞める人が激減する。 でも、プライヴァシーの問題で研究者やアーティストに患者のデータがアクセスできないので、その効果をデータとしてまとめるのが難しい。 まだまだ理解と協力が足りない。 Arts in Healthの認識を高め、皆が結束することで、もっと研究が進み、データが増え、ますます加速できる。
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ボストンに来ています。すでに初秋!朝晩は寒いくらいです。 National Organization for Arts in Health(「芸術と医療」全米連盟」)の学会に出席するためです。昨日はハーヴァードとMITでそれぞれ研究をしている私の尊敬する友人二人とそれぞれ会って、夜は学会の前夜祭。ご馳走が並びました。 志を共にする新しい仲間・組織・会社に沢山出会えて、勇気百倍!元気が出ました。ニュースを見ていると悲観的になる事もあるけれど、でもこうして沢山の人たちが、色々な分野でそれぞれ世界を少しずつ良くしようと一生懸命頑張っています。 今朝は8時半から開会式。NOAHの学会はHealthcare Facilities Symposium and Expoと言うより大きな学会の一部です。主に医療器具や建築・施設デザインなどに関わる専門家たちの学会です。全部合わせて参加者は2000人以上!NOAH参加者はその中で237人。開会式は合同でした。 そのスピーチをしたのは、この人です。Yoko Senと言う日本人女性。入院時の病院の音を苦痛に感じた元ピアニストが、その後病院の音環境改善を働きかけています。一時間ほどのスピーチをしました。病に集中する医療を、人間に集中する医療に変えよう。患者さんだけじゃなく、患者を介護する人のケアも行う医療現場を考えよう。死にゆく人が最後に聴く音がこんな音で良いのか。 WHOが病人が耐えられるとしている音量は30dB だそうです。が、現実には病院のノイズレヴェルは40dB.さらに、医療スタッフは「警音が夢の中でもなっている」などと訴えるそうです。どうすれば良いのか。例えば生態モニターが音楽で表される機器と言うのは可能か? その後はもう15分毎に新しいトピックでのプレゼンです。 医療現場に芸術を取り入れる時には地域の賛同と協力が不可欠。それをどうやって取り入れ、お互いに得るものが多い共同発展プロジェクトをデザインするか。 精神病患者にアートセラピー。症例とデータ。 建築と芸術を融合させた医療設計。 アートを使って精神疾患の汚名を払拭する活動。 芸術オブジェを医療現場に置くことの意義。(この人は色々なデータを紹介。アートが在る事で痛み止め服用が減るとか、回復が早くなる、と言うのは有名だけれど、この人は医療経費が減る、と言っていて面白かった。医療スタッフの燃え尽き症候群が減る、とかまあ周知の事実のほかに、オブジェが在ると目印になり、医療スタッフが道案内に使う時間と労力が減少=これを年間節約に換算していて、凄く笑えた) 医療現場で働くアーティストの訓練の必要(医療倫理とか、伝染病・衛生・非常時対応などに関する知識とか) 医療に携わる準備をする学生たちに芸術教育を施す必要性 NEA(国立芸術基金)の代表がこの分野への期待と資金調達方法について 今日初めて知った、面白い概念。 Death Cafe:「死」について真剣に話すために設けられるカフェ。患者さんは勿論、家族の死が間近な人達などにも。最近アメリカで広まっているらしい。 医療現場で不適切な音楽と言うのはあるのか?死に関する曲は避けるべきか? 頭がパンクしそう!しかも明日はもっと長丁場!!

