• ロサンジェルスで毎週日曜日の6時半から7時まで放送される、日本語テレビ番組、 「Newfield Television Broadcasting」。 そこで約5分、私が音楽の話をし、なじみ深いピアノ曲の抜粋を弾くミニ・シリーズ「ピアノの時間」。 今週の日曜日にエピソード#5が放映されました。 今回のテーマは「調性について」。 曲はシューベルトの即興曲作品90-3、変ホ長調です。 下のリンクの8分6秒の所から、「ピアノの時間」をご覧頂けます。 http://www.soto-ntb.com/program/2011-02-27/

  • ライス大学が国立図書館に送り込むために選んだ音楽専攻の修士あるいは博士課程の生徒は5人。 台湾系アメリカ人のヴァイオリニスト(女)、韓国人のチェリスト(女)とピアニスト(女)、日本人の私と、アメリカ人の作曲家(男)である。作曲家以外はすべてアジア人女性なのである。作曲家は演奏はしないから、舞台上は全くアジア人の女性だけになってしまう。 世界的に、クラシック音楽界にはアジア人が目覚ましく進出を続けている。これは、例えば私のお友達でアメリカ文化研究者、ハワイ大学の教授である吉原真里さんの著書、『Musicians from a Different Shore: Asians and Asian Americans in Classical Music』Temple University Press, 2007でも大いに検討されている現象である。 しかし最近、アジア人がクラシック音楽をすることがさらに注目を浴びている。今年の1月に出版された、Battle Hymn of Tiger Mom (タイガー・マムの聖戦歌)がその理由だ。Amy Chuaと言うエリート中国系アメリカ人女性(イエール大学で法律を教えている)が、その子育ての記録を綴っている。アメリカ人男性(この人もイエールの教授)との間に二人の娘をもうけたエイミーは、この二人をビシバシとスパルタ教育している。泣き叫ぶ7歳の娘を夕飯抜きで、トイレにも行かせず何時間もピアノの練習を「曲が弾けるようになるまで」強制したり、A以下の成績を許さなかったり、毎日何時間も計算と綴りのドリルをさせたり。。。 「幼児虐待!」と叫ぶアメリカ人読者もいる。アメリカでは子供は褒めまくって育てる伝統が在る。しかし批判されているだけならばこの本はこんなに話題にならない。この本が今、話題になるには在る特殊な背景が在るのである。それは国際的に行われる小学生の学習能力の結果である。アメリカの小学生の数学能力は世界25位、そして理科も21位と決して好ましい物ではない。ところがそんなアメリカ人小学生が必ず一位になるのが、「自信」。これら学習能力のテストの後、「このテストは上手く言ったと思う―yes or no – 」とチェックする所で、アメリカ人の小学生は突出して自己肯定的なのである。この統計が最近ドキュメンタリー映画などで取り上げられ、話題に上るに従って、アメリカ人たちは静かに焦り始めている。そして学習能力のトップに出てきたのが、上海などの中国の都市。この本が話題になるわけである。自信たっぷりのはずのアメリカ人が、自分たちの今までの教育方針に疑問を持ち始めているのである。 明日とあさって、国会図書館で演奏する私たち4人のアジア人は、もしかしたら受けるかもしれない質問に備えて、昨日の夕飯時は「タイガーマム」の是非、そして自分たちの幼少時代の両親との関係の話題で盛り上がった。

  • NYからバスで約5時間、いよいよDCに入りました。 着いたのは、昨日(水)の正午過ぎ。 図書館に直行し、軽くこれから弾く曲の作曲の手紙などをリサーチしてから、 4時から7時半まで図書館のクーリッジ演奏会場でリハーサル。 これが素晴らしいホールなのです。 本当に凄い音響のホールで演奏すると、 自分の音や一緒に弾いている仲間の音がも本当に楽に、美しく聴けるようになり お互いの音と自分の音を溶け込ませると言う作業が本当に楽しい、自然な事となるのです。 クーリッジ演奏会場と言うのは、どんなにお金を積んでも借りられるホールでは在りません。 招待されてのみ、演奏出来るホールです。 政府機関ですし、またこのホールを作るための寄付をしたエリザベス・クーリッジの意向もあって ここで行われる演奏会は全て入場料無料。 500席はいつも満員で、入場の為に列ができるそうです。 ここの音響と言うのは名高く、 私のここでの演奏が決まってから色々な人にその素晴らしさに関して聞かされてきました。 そしていかに色々な高名な演奏家たちがこのホールで録音したくて、でも断られたかと言うことも。 でも、こんなに音響に触発されるなんて、昨日実際弾き始めるまで予測できませんでした。 演奏が楽しみです。 旅をしていると、ちょっとしたことがとても心に残ります。 昨日、バスがDCのユニオン・ステーションと言う大きな電車の駅に着いた後 地下鉄に乗って図書館までやって来ました。 NYのグランド・セントラル・ステーションは世界一大きな電車の駅で、 内装も「ここはお城かしら!?」と思うほど美しく (私が映画監督だったら、王様の舞踏会はあそこで撮りたい!) 私の大好きな駅ですが、 DCのユニオン・ステーションも凄い! そしてどちらも地下に大きなフード・コートが在ります。 私は丁度お昼時だったし、食べ物にはいつも興味が在るので、地下をちょっと探検しました。 そしたら、色々なお店が沢山、沢山味見をさせてくれるのです! 「熱いですよ、気をつけて!」 と焼き立てのチキンが一切れ刺さったつまようじなどが押し付けられてきます。 私は本当にほくほくでした。 さて、地下鉄に乗って図書館に向かう道中。 私はスーツケースを抱えているし、きょろきょろして、いかにも旅人だったと思います。 図書館に行くまで何駅か一応覚えてはいたのですが、でも不安。 駅に着くたびにホームに書いてある駅の名前を確認していました。 ところが通過した駅の一つでは、駅の名前が大きな柱や、待機中の向かいのホームの電車の影で 見えない! 私が一生懸命、ろくろっ首になってきょろきょろ見ようとしていたら、隣に座っていた女の子が 「何々駅」 と、駅の名前だけを大きな声で言ってくれたのです。 恥ずかしがり屋の人が、一生懸命声を出した、と言う感じでした。 さらに、私が外国から来ていて英語が喋れない可能性を考慮して、 「余計な事は言わず、駅の名前だけをはっきり発音しよう」と心の中で決心して 覚悟して発音したような感じでした。 「thank you」と笑って見せたら、とても嬉しそうにしてくれました。 こう言う一期一会で、旅先では本当に良い思い出になります。

  • 私のお友達の彫刻家、在日系韓国人の呉さん(Kyu-Seok Ohさん)がNYのど真ん中、ネオンのまぶしいタイムズ・スクエアに紙で作った24匹の羊を設置しました。 http://nyclovesnyc.blogspot.com/2011/03/counting-sheep-by-kyu-seok-oh-at.html NYは音楽家を含め、色々な人生背景を持った色々な芸術家たちが集まって来るところです。 コルバーン時代の仲間の多くも今はNYに住んでいますし、 今回は4日間と言う短い滞在で在ったにも関わらず、 今はミネソタ州でピアノと声楽の先生をしている私の大学時代のルームメート、アリソンが たまたま同じ週末に用事が在ってマンハッタンにいたりして、 沢山の旧友と、セントラル・パークを散歩したり、お茶を飲んだり、美味しいご飯によばれたりしながら 心がいやされ、あらたまる様な、過去を振り返って多くの新発見する様な、 実に、実に濃い会話に沢山恵まれることが出来ました。 私はNYに実の家族の様に温かく見守って支えて、応援して、時にはハッパをかけてくれたり、 彼ら自身の人生への姿勢、頑張りや、目標に向かったり、逆境に抗ったりしながら 前進する姿で私を多いに触発してくれる素晴らしい友達が何人もいます。 それは、大きな財産だと思っています。 今、バスの中、ワシントンDCに向かっている最中です。 正午過ぎに到着したらすぐ国会図書館に向かい、リサーチとリハーサル。 ライスの仲間と再会です。

  • 今年の夏ゴールドベルグ変奏曲を演奏する、と打ち明けた途端にびっくりして見せる同業者が多い。 私は今から考えれば物凄い無知の怖い物知らずだったので、何でびっくりするのか分からなかった。 確かにゴールドべルグは長い―繰り返しを全部やれば一時間以上かかる大曲である。 それから、これは2段鍵盤のハープシコード用と指定して書かれた曲で、 右手と左手が上下別の鍵盤で弾くことを想定して、 沢山交差したり、同じ音域で弾いたりするか所が在るので、 一段の鍵盤しか無いピアノと言う現代楽器で弾くと不都合がある。 そこまでの知識程度で挑んだのだ。 ところが。。。 これが物凄い曲なのである。 知れば知るほど、恐ろしい。 昔、息をして、食事をしていた生身の人間が書いたなんて信じられない。 単純に数字の面だけで言っても凄い。 有名なアリアが一番最初と最後に提示され、 その間にアリアのベースラインを基にした30の変奏曲が在る。 30の変奏曲はさらに、小さな3つずつの変奏曲に分けられる。 変奏曲1.舞踏曲、あるいはフーガなどはっきりしたジャンルに基づいた曲。 変奏曲2.手を交差させ、鍵盤技術を駆使する曲。 変奏曲3.カノン この3つ目のカノンがまたすごい。 最初のカノンは同じ音から始まる。 2つ目のカノンは2声目が1声目より一音高く、3つ目は2声目が1声目より二音高く、 と言う風に進んでいく。 その複雑さ、そして頭脳的な完璧さに反比例した完璧な美しさと言ったらこの世のものとは思えない程。 さらに、難しいのは歴史的正確さをどこまで責任を持って追及するか、という問題である。 バッハが意図した、当時の技法、美的感覚を再現することに徹するべきか。 それとも現代の美的感覚に訴えるべく、新しい解釈をするべきなのか。 ピアノ演奏をどこまでハープシコードに近づけるべきか。 それともピアノ演奏ならではの、ピアノの可能性を最大限に生かした演奏をするべきか。 さらに、数学的な完璧さ、と言うのは演奏家はどこまで意識する義務が在るのか。 余り意識し過ぎると、余りの恐れ多さに、解釈が出来なくなってしまう。 う~ん。凄い! 明日、NYの私の尊敬する恩師にレッスンをしてもらいます。