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昨日、友達と話していて口から出任せだったのだけれど、 自分で自分の言うことを聞きながら (あ、これって「真実」かも!覚えとかなくちゃ)と思ったこと。 私も、私の友達も、クラシック音楽家と言えど、 いままでどちらかと言うと「ノダメ・キャラ」で来ていた。 いつもどたばたと、面白おかしく、詳細にこだわらず、がさつだけど大らか、みたいな。 でも、私は「色」とか「気遣い」「思いやり」「ゆとり」などから来る 「女性美」追求にギア・チェンジをしたい、と思うのだ。 理由は色々在って、今まで人や自分にきちんと説明したことも無かったのだが、 昨日の会話で言った出任せは、案外正当かも。 がさつをひょうきんでごまかして、面白おかしく出たとこ勝負で、と言うのは勢いが要る。 勢いは良いし、楽しいし、勢いがなきゃできないことも沢山ある。 でも、それは一生は続かない、と思うのだ。 これから段々成熟していくにつれて、色々得る物も多いと思うのだが、 一つだけ落ちていくことが決まっているのは、勢いだ、と思うのだ。 死ぬまで毎日、少しずつ進歩していくことを自分に課している私は、 勢い任せの3枚目より、 じっくりと追求できる「余裕」「細やかさ」「気配り」と言った 一呼吸置いたような「色」の方がずっとこれからの可能性を秘める成長株なのである。 これは、日常生活に於いても、音楽の解釈や演奏に於いても、全く同じである。 と、こういう話しをじっくりできる友達に恵まれていることは、幸せ。
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数日前のブログにも書きましたが 何時間も映画の予告編を次から次へとYoutubeで見てしまった晩 しまいには色々な映画がごっちゃになって来る中で一つだけ際立って 「絶対観たい」と思った映画を今日観てきました。 「ルーシー」です。 何故そんなに強く惹かれたかと言うのはむしろ勘的なものですが、 敢えて説明をするならば 1.演技派女優のスカーレット・ジョハンソンがアクション映画に出ている。 (クララ・シューマン系の私が今リストの『ラ・カンバネラ』を練習しているように) 2.脳の許容量を全て使いこなす女性、と言う設定に憧れを抱いた。 3.今模索中の「超絶技巧」の練習に役立ちそうに思えた。 技術的に難しいパッセージを物凄くミスタッチしてしまう時とそうでない時がある。 違いはちょっとしたこと。 肉体的、心理的、そして技術的な要素、 そして集中度と言う要素が在ります。 この集中度と言うのに、今物凄く注目していて、 この映画で何かヒントを掴めそうな気がしたのです。 う~ん、期待以上に凄い映画で、しかもとても私に役立った。 今、燃えています。 人間は脳のキャパシティーの10パーセントしか使っていないと言われています。 それが20、40、50、そして100パーセント使えたらどうなるのか。 スカーレット・ジョハンソン演じるルーシーは 麻薬を投与されて、意図せずしてそこまで到達してしまいます。 脳力がどんどん増すにつれ 「人間的で無くなっていくように感じる。 それまでの感情から遠く離れていく感じがする。 欲望が無くなる。死をもう恐れない。」 と、まるで禅僧のようなことを言います。 私は全くの凡人ですし、麻薬もやりませんが、 でも音楽を通じてこういう領域を垣間見ることがある、と思っています。 もう比べるのもちゃらちゃら可笑しいのかも知れませんが、敢えて。 映画:脳20パーセントの段階で、ルーシーは自分の体の全てをコントロールできるようになる。例えば、運動能力、メタボリズム、自己治癒能力、感覚の鋭敏化など。 演奏家:どんなに風邪を引いていて咳も鼻も止まらなくても、演奏中は出ない。花粉症でもくしゃみが出ない。すっごく眠くてもあくびが出ない。眠いのも、風邪で気分が悪いのも、花粉症で鼻がむずむずするのも、全部忘れてしまう。さらに、感覚が鋭くなる(遠くの音が聞こえる、人の気配に敏感になる、など) 映画:脳40パーセントで他の人を操れるようになる。(テレパシーとか、催眠術みたいに自分がさせたいことをさせられる、とか) 演奏家:演奏が上手く行っている時、本当に聴衆の呼吸とか、心拍数とか、呼吸の速さを、音楽と一体化させられる(と、思う―しかし、実際に医療現場で乱心拍の患者に音楽を聞かせるて、心拍を一定化する、とかリハビリ中の患者に音楽を聞かせて運動能力を高める、等と言うことが行われている) でも、確かにスカーレット・ヨハンソン演じるルーシーは 脳力が高まるにつれて、無表情に、冷たく(冷静に!?)なっていく感じがする。 ルーシーは物裡も数学も究極的に全てマスターしてしまう。 そして「でもこの知識をもってどうすれば良いのか、わからない」 とモルガン・フリーマン演じる脳科学者に相談する。 「伝達しか無い。人間、生物、そして細胞の、究極的な存在意義は伝達のみ」 と言われて、まあそうするのです。 (大丈夫、ここまで言ってもまだ全然映画の種明かしはしていません) 私に出来ることも、この音楽を通じて垣間見る、私自身も上手く説明が出来ない、 この超越的な「在り方(State of Being)」を 自分が音楽を通じて垣間見ることができるなら、 音楽の演奏を通じて他の人にも垣間見る機会が伝達できるかも、と信じるだけです。 奮い立ちました。 勇気付けられました。 そして、この主人公が女性、と言うのも、面白い。 なぜ、敢えて、女性、なのか。 私はその選択を多いに支援しますが、 でも、今の世相を反映しているようで、面白い。
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段々、回復しつつあるのを感じる。 論文書かなきゃとか、練習しなきゃ、とか思いつつ 何時間もYoutubeで映画の予告編を続けてみてしまった晩などは 本当に自己嫌悪なのだが、 そう言う時間もきっと必要としていたんだ、と自分に優しく、 前向きに、さあこれからはどうやったらもっと頑張って自分を好きになれるかな? と、自分を励ます。 有効なのは、楽しい外出。 友達と外で食事したり、 この前は公園でシェークスピアの「ヘンリー4世」の無料野外公演をやっていたので 友達と行った。 演劇自体は製作が良くなかったのか、シェークスピアにも駄作があるのか、イマイチだったが、 外の風はとても気持ちよかったし、 行きと帰りに思いがけずとても会話が弾んで、楽しかった。 もう一つ有効なのは、運動! 学校のジムで運動するぞ~!と張り切っていたら、 まだ秋学期の期間が来週まで始まらないと知って、がっかり。 でも、越してきた団地にジムがある。 あんまり機械とかは揃っていないけれど、 論文が進まずむしゃくしゃしていた時、 冷やかしのつもりで文献と鉛筆を持って覗きに行って、 マシーンでガシャガシャ心拍数を上げてきた。 爽快! そしてなぜか文献を読むのも非常にはかどりました。 病み付きになって、以来日課。 何しろ、階段下りてすぐのところにあるので、 読む文献が溜まってきたら下に行ってガシャガシャやりながら読んでます。 今朝は筋肉もりもりのお兄さんの筋トレに遭遇。 赤ちゃんが生まれるかと思うほどの力み方でした。 でも、気にしないで私もガシャガシャやりました。 さらに、食べ過ぎないこと。 時差がある時は食欲が非常事態。 全然食欲が無かったり、逆に夜中に空腹で目が覚めたりします。 今回は食欲が無い方でした。 自分でも信じられないほど、 普段食いしん坊の私の食生活が簡単な物になり、 でも結構調子が良い。 この頃は『良いものを少し』をモットーに食べています。 無農薬、無添加で健康な食材は害して値段が張るけれど、 その分量を食べなければ良い! 痩せてきたのも、楽しみです。 どこまでいけるかな~。
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日本で食べたイチジクが大変美味しかったので、 昨日、こちらでもBlack Fig(黒イチジク)なるモノを買ってみたら、 「美味しい、美味しい」と一緒に食べた日本の家族に申し訳ないくらい、 さらに美味しかった! びっくり。 家族で毎日寝食を共にしていた生活から一転。 新アパートのルームメートは旅行中で、ずっと一人の時間が続く。 入居の作業や転居に伴う手続きの数々、 新学期の手配や買い物の合間に、 練習や論文のリサーチをやっていて 忙しく、結構楽しく過ごしているのだが 毎日ワイワイから急に一人暮らしは、ちょっと不思議な感じ。 悪くない。 でも、不思議。 家族のスケジュールの合間にする練習と、 用事は沢山あるのだが全てが自分本意の生活でする練習とは まったく違う。 両方とも良い点と良くない点があるが、結局は自分次第。 と、前書きはさておいて。 ロビン・ウィリアムズ(63)の自殺はアメリカではかなりの衝撃を持って迎えられている。 天才と言っても良いくらいの才能の持ち主。 アメリカで私の世代の物は皆、 グッドウィル・ハンティングとか、ミセス・ダウトファイヤーとか 彼の映画を観て育っている。 まあ、ちょっと考えてみると彼のコメディーは躁っぽいな~とか、 思い当たる節が無きにしもあらずだけど、 しかし、ショックだった。 でも、比べるのもおこがましいが、私も演技をする一人の人間として その苦しさはちょっと分かるような気がする。 もっとずっと若かった頃、 試行錯誤の一つとして、演劇のクラスを取ったことがあった。 色々学んだが、一番心に残ったのは 先生が話してくれたある有名なシェークスピア俳優の話し。 物凄い成功の舞台のあと、付き人が楽屋で泣いている本人を発見。 「あんな成功の後で、何で泣かれるんですか」と聞くと、 「成功する時に何で成功しているか、自分には全く分からないから もう二度と成功出来ないかも知れない、といつも怖い」 と言って泣きつづけたそうです。 ロビン・ウィリアムズはディズニー映画「アラジン」のジニー役もやっています。 このTwitterが今、Facebookで彼の冥福を祈って、まわされています。 https://twitter.com/TheAcademy/status/498996314395246593/photo/1
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私の博士論文のトピックは「ピアノ演奏に於ける、暗譜の歴史」である。 暗譜演奏を定着させたのは、リストとクララ・シューマンと言う事になっている。 ちなみに、今日のピアノ・リサイタルのフォーマット ―2時間の、休憩を挟んだ独奏― を定着させたのもこの二人、と言われている。 (実際はリストがロンドンで1840年に行ったのが最初と言われている。クララ・シューマンは、リストに着想を得て、1844年に初めて『リサイタル』を行っている。これはこのフォーマットの方がより良いと思った、と言うよりは、それまでの伝統―他の楽器奏者や時には役者や劇団を雇って合間に演じさせる―は手配も大変で出費もかさむから、だったようだ) この二人とこの時代について言及してある、と言う事で 実際には暗譜については一言も触れられていなかったが 読んで見たら、面白かった。 The ritual of music contemplation: An anthropological study of the solo piano recital as cultural performative genre Pedroza, Ludim Rebeca http://search.proquest.com.ezproxy.rice.edu/docview/305478050/abstract/D02ACCDCA0A44617PQ/10?accountid=7064 まず、リサイタルと言うものの意義について問いかけます。 今の世の聴衆にとって、音楽を楽しむ、または知る上で、どれだけ有意義で有効なフォーマットか。 ピアニスト自身は、まるでリサイタルを演奏することがピアニストである証明のように 学生時代はその為に練習を重ねるが、実際の収入をリサイタルで得ることになるピアニストはわずか。 ならなぜ、ピアニストの教育で、リサイタルにこれまでの重点が置かれるのか。 まさに! 次に、リサイタルとは、むしろ儀式ではないか?と、問いかけ、儀式の定義を行います。 主に人類学者Victor Turner(そして補佐的に、人類学者Eric W. Rothenbuhler)の研究を基に、儀式とは二つに区分けられる、とします。 1.アフリカの部落のような小さく、工業革命の影響を受けていないコミュニティーに置ける、全員が参加を義務付けられる儀式。(例えば日本の伝統的なお祭り、教会の祭典、など)。これは、コミュニティーの日常から離れ、また日常の良さを確認して、戻るための役割がある。(Liminolity) 2.工業革命後の、大きな社会に置ける儀式(演劇、舞踏、スポーツイベント、など)-余暇にどの『儀式』に参加するかは、個人のアイデンティティーをつかさどる大きな要素。この『儀式』は日常から距離を隔て、日常や現実の正当性や、現状はどう変化できるか・するべきかと言うアイディアの提示などを行い、革命などに繋がることもある。(Liminoid) そして、では、リサイタルとは1と2のどちらに属すのか? 彼女は歴史を追って、リサイタルは儀式2から儀式1へ移行している、と意見を述べています。 もう一つ、この論文で面白かった点。 リスト対クララ・シューマンで、リサイタルは全く違う役割を果たしていた。 リストは自分の超絶技巧とスター性を見せびらかすために 聴衆を自分だけに集中させる2時間が欲しかった。 しかし、クララ・シューマンは音楽を崇高な物として、「娯楽」から遠ざけようとした。 その違いが選曲にも、演奏法にも、明らかだ、と言うのです。 私は明らかにクララ・シューマン線で今まで来ました。 しかし、最近、私にリスト線の選曲をリクエストする人が出てきているのです。 私はピアノ演奏をスポーツを見るような感じで技巧だけに感嘆して欲しくない、と言う思いから 例えばリストの『ラ・カンバネラ』などの曲を今まで避けてきました。…
