一緒に聞く音楽

どんどん毎日元気になってくる。嬉しい。 気分が悪かった時は本当に部屋を出て学友と顔を合わせるのも億劫だったけれど、 今日は色々用事でみんなに会うことが多く在って、そのたびに何だか嬉しかった。 夜、お友達がお部屋に遊びに来てくれた。 Youtubeで色々な演奏や曲で好きな物を皆で紹介し合った。 私はこういう風にYoutubeで遊ぶのは初めてで、 Youtubeで音楽を聴くときはいつも部屋で一人だったけど、とても楽しい体験だった。 昔はむしろ演奏会で聴く生演奏よりも、完全に一人で音楽に浸りきれる録音の方が好きだったけど、 人、特に気心の知れた音楽仲間と一緒に聞く音楽と言うのは、全く違ってまた凄く良いものだ。 浸りきって一人で聴く音楽と言うのは、全く主観とすでに持っている知識だけの世界に集中することになるが 一緒に聞く音楽は、他の人の感性を受け入れる客観性を残して聞くから、全く別体験だ。 視野も、音楽世界そのものもぐっと広がる。 とても刺激的で、勉強になったし、何より楽しかった。 昨日から、旅行中のMr. Perryに代わって後輩のレッスンをしている。 皆とても才能があるので、ちょっとした意見を述べるだけでどんどん演奏が変わって面白い。 私も、張り切って、そして皆の音楽性に触発される。

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病み上がりの音楽

その圧倒的な名声により、後にポーランドの首相まで務めた、カリズマ・ピアニスト、パデレフスキーは 「一日練習しなかったら自分にわかり、二日練習しなかったら評論家にわかり、3日練習しなかったら聴衆にわかる」と言ったそうだが、これは私にも当てはまるだろうか? 今日は、ちょっと反対の体験をした。 今朝の寝起きは、すっきりと言うのは程遠かった。 目の奥が重く、眠くは無くてもいつまでも瞼を閉じていたい感じ。 でも、もう4日もピアノに触っていない。 後で昼寝をするにしても、とりあえず起きてちょっとでも朝のうちに練習したかった。 シャワーを浴びながら、身支度をしながら、何度もくじけてベッドに戻りたくなる。 ここまで休んだんだからあと一日大事をとって完治してから練習再開の方がいいのかも知れない。 でも頑張って、練習室まで自分を引っ張っていく。 始めはやっぱりもどかしかったけど、弾いているうちにどんどん元気が出てきた。 目が、耳が、指が、体が段々覚めてくる。 どんどん音が、音楽になって聞こえてくる。 どんどん指が軽くなってくる。 そしてベルグが、シューベルトが、ベートーヴェンが、バッハが全く新鮮に聞こえてくる。 凄い! 毎日練習していたら絶対分からない感動。 生きている、と言う実感、音楽家で良かった、と言う実感がふつふつと沸いて、 思わずにこにこしてしまう。 頭が痛くて、ふらふらしていた時は友達に笑顔で挨拶するのさえ面倒くさかったのに。 4日休んで、やっぱり良かったんだ。 そして、やっぱりピアニストになって、良かったんだ。

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病気の時に読む本

もう一日、病欠してしまった。 体温計を所有していないので、はっきりと自分に熱があるかどうかが分からないのだが、 とりあえず昨日よりは気力もあり、体の節々の痛みもほとんどひいた。 それでも、免許証の更新の為の手続きをオンラインでやる、などと言う簡単な雑用をしただけで 10分くらいうとうと寝たくなってしまう。 この病欠中、本は沢山読み漁った。 今回改めて感動したのは、幸田文の「台所の音」と言う短編集。 彼女の描写能力はすごい! 静かに、情景が情緒を伴ってありありと思い浮かんでくる。 本当に別世界に連れて行かれる。 それから村上春樹の「神の子供たちは皆踊る」と言う短編集。 この人も独自の文体と世界を持っているが、幸田文の様に洗練はされていない気がする。 勿論、そういう世界を目指してもいないと思うし、世代も違うのだけれど。 もう少しショック・ヴァリューが大きくて、一瞬息を呑むが、残るものがもう少し浅い。 でも、短編集の村上春樹の女性のキャラクターは、長編ものより面白い。 長編物の村上春樹の女性キャラクターはなんだかパターン化している気がする。 新しく出た「1Q89」はどうなんだろう。 病気の時は本当に日本語の本しか読みたくない。 どうしてだろう。 でも今日はずいぶん回復してきていて、その証拠に今英語の本を読んでいる。 "Mozart in the Jungle~Sex, Drugs, and Classical Music" by Blair Tindallと言う本で、 音楽関係の本を読む気になっているのも、自分の回復状況を反映していると思う。 これはニューヨークを拠点にフリーランスで活躍した女流オーボエ奏者のいわば暴露本で、 私の知り合いも出てくる、と前から噂には聞いていた本だった。 まだ5分の1位の読みかけだが、噂よりも随分きちんとリサーチしてまじめに書いてある本で、 政府の文化補助金に関してなど、ずいぶん私の知らないことが多く書かれているし、 確かに私の知っている人も結構出てくるので、楽しんで読んでいる。 明日は、韓国に公開レッスンと演奏の為に旅立ったペリー先生の代りに 学部生のレッスンを少しすることになっている。 明日は元気に頑張りたいと思う。

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「無駄」な時間!?

どうやら風邪をひいてしまったらしい。 豚インフルエンザが騒がれるこの季節、全く縁起でもない。 先週くらいからなんだかいつもより怠け者になり、それなのに焦燥感もわかず、 気楽にホワーっと過ごす時間が増え、金曜日は起きてみたらすでに9時でびっくりした。 友達に体が熱いよ、と指摘されて、土曜日に熱を測ったら華氏で101.5度(38.6C)ありびっくり。 それまでの一週間のぼんやりぶりに始めて納得がいき、罪悪感抜きで怠けられるとちょっと嬉しかった。 とろとろと眠り、本を読み散らかし、たくさんの映画を見て、立て続けにスープと熱いお茶を交互にのんで、 段々この「公休暇」に飽きてきた。 練習がしたい! 夢の中で練習するようになってきた。 練習がしたい! 始めなければいけない勉強も沢山ある。 かけるべき電話も、果たすべき責任も、ある。 バリバリ生きたい! 今日の夜ぐっすり眠れば、明日は魔法の様に元気いっぱいになっている、と思う。。。

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現代曲考察、ベルグのソナタ

タングルウッド音楽祭参加中からずっとその是非について考え続けた現代曲。 段々ある一つの見解が自分の中で固まってきている気がする。 それは必然性の問題である。 私の独断と偏見に満ちた見解を恐れ多くもここにまとめさせていただければ、 音楽に限らず、全ての芸術作品の価値と言うのは必然性のレヴェルと比例するのではないかと思う。 その時代と、そこまでの歴史の流れを、どれだけ反映し、どれだけ必然性を持って生まれてきたか。 勿論、その芸術家の個人的な歴史の中で、個人的にその作成が必然だったと言うこともあると思うが、 その個人的必然性が一般化できなければ、その作品は偉大とは言えないと思う。 それぞれの作品の歴史上での必然性と言うのは別に、 その曲の中でそれぞれの音、和音、リズムの曲の中における必然性という物もある。 その必然性の密度が高ければ高いほど、楽譜に記録する価値が出てくる、と思う。 楽譜と言うものは、世界中の音楽の中でも特に西洋音楽にユニークな記録・伝達方法だ。 私は民俗音楽に疎いので間違っているかも知れないが、 ここまで作曲家の指示・意図が微細に記録できるのは西洋音楽の楽譜だけだと思うし、 だから西洋音楽は他の音楽に比べて大きく、素早く、歴史と共に(超えて?)発展することができた。 その発祥自体が西洋音楽の性格と、長点、そして限界を元から含んでいると思う。 カトリック教会において、神を讃える方法としてのチャント(俗にグレゴリアン・チャント、6世紀?)を それぞれの地域のローカル性、世俗性を含まない、完全に統一されたものとしてコントロールしよう、 と言う考えから発達された方法なのである。 ここでちょっと話を飛躍させて、私がいつも考えている「記録する」と言う行為について書きたい。 言語には(私が理解する限り)2種類あって、それは文字を持った言語とそうでない言語である。 例えば、日本語はもともとは文字をもたなかった言語だ。 アメリカン・インディアンの言葉もそうである。 文字を持った言語がより「優秀」な言語かと言うとそうでは無くて、態度の問題だと思う。 言葉で捉え得るものを記録する価値があるものとするか、否か。 記録する価値がある、とした文化は記録したものの上に考えや見解を積み重ねていけるから、 文化的発展や、自信・信念を確固と持つことはより可能になる。 でも、記録しないことによって、瞬間瞬間の感覚をより新鮮に、直接受け止める能力、と言うのもある。 先入観、と言うものができにくいからだと思う。 記録しないものを発展させるのは、自然とより長い時間がかかるが、 でも、意思の力が介入しにくい分、より自然、あるいは「本当」の発展ができる、と言うこともあると思う。 楽譜に記録する必要性の高い音楽、と言うのは実は少ないと思う。 例えば、古典派の音楽では「革新」的であると言うのは必ずしも望ましいことではなかったので、 音楽家どおしの「常識」と言うのは幅広く、作曲家がヒントの様な事を書けば 後は演奏家と「ツーカー」で分かりあうところが多く、だから強弱記号など、省いても良かった。 それが、歴史が進むにつれて作曲と演奏と言う行為がどんどん分業化されて、 しかも音楽が「革新的」「独創的」であることがどんどん良しとされ、 今まで誰も思いつかなかったことを作曲家が血眼で捜すようになり、 楽譜の記法がどんどん複雑になり、現代音楽がどんどん一般から遠いところで存在するようになった。 ミルトン・バビット(Milton Babbit, 1916年生まれ)が1958年に書いた 「Who Cares If They Listen?(聴いてくれなくても、気にしない)」と言う有名なエッセーがある。 前衛的作曲家のバビット氏が 「最先端の科学は私たちの日常生活と何の関係もないけれど、その意義を社会的に認められ、大学にその居場所を確保されている。前衛音楽も同じように、一般聴衆とは全く別のところで大学に居場所を保障されるべきである」 と論じるエッセーだ。 これが、今までの芸術の歴史の流れと、今の世の中を反映した、芸術観? それではあまりに悲しすぎる。 私は一人の聴衆、演奏家、そして人間として、それに甘んじることはできない。 今度の11月に私が弾くベルぐはショーンベルグの弟子で、後に無調性、12音階の作曲家となるが 私が今回弾くピアノソナタはその作品1、ちょうど100年前の作品だ。

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