ホンダの哲学

いつも、演奏会の宣伝などでお世話になっているロスの日本人コミュニティーの関係で、 ホンダのエアバッグを発明、開発した小林三郎さんのお話を聞く機会を得た。 小林さんは、実にエネルギッシュでユーモアのセンスに満ち溢れた人で、 (英語の講演だったのだが) "Profit can NEVER be a goal – profit is only a mean to the end!" 利益を目的にするな~利益は夢に到達するための手段である! とか "Action (technology) without philosophy is a lethal weapon; Philosophy without action (technology) is worthless" 哲学・理想抜きの行動(技術)は凶器である。 行動(技術)抜きの哲学・理想は無意味である。 など、ポンポンと明言が飛び出した。 他にも、 「自分の提供する製品の理念・価値をいつも言えるようにしろ。」 「20年後、世の中の価値観がどうなっているか、いつも考えていろ。」 「10人のうち9人が賛同するアイディアは、もうリサーチするには遅いアイディアである。(はじめにエアバッグを提唱したときは、業界の「今年の一番馬鹿らしいアイディア賞」と言うのの2位になってしまったそうだ。)など、など。 小林さんは、こういう「哲学」のすべてをホンダの社長のもの、としていたが、 それを実践して、今では世界中がマネするホンダのエアバッグを創った小林さんも やはりえらいと思う。 同じ日本人として、とても誇りだった。

ホンダの哲学 Read More »

運動

大体ロサンゼルスは、ハリウッドがあるせいもあるが、肉体美を始めとする「うわべ」を繕う文化だ。 モデルのようにやせ、着飾った人が多いし、 筋肉マンみたいな人達が筋トレをするヴェニス・ビーチの一角、「マッスル・ビーチ」と言うのは観光スポット。 ヨーガや、ジムに通うことは最近では「成功の秘訣」、みたいに色々な所で宣伝されているが、 ロスは特にその傾向が強い。 コルバーンに来てから、私は前よりずっと運動するようになった。 2006年、私の一年目は、サウナの様に暑い室内でヨーガをする「ビクラム・ヨーガ」を週2位でやった。 そのあとは、普通のヨーガに二年ほど凝った。 姿勢を正し、重心を下に下げることで上半身の力が抜け、余分な努力無くピアノを弾けることを狙い、 週に二回、ほぼ必ず通っていた。 しかし、寮の各階に住む、「寮生活アドヴァイザー」みたいな人たちの一人に ボディー・ビルダーの様な立派な筋肉を持ったトランペット奏者が就任した2008年、 私のヨーガ時代は終わった。 彼が無料でコルバーンの生徒対象に火曜・木曜・と土曜の週3回、 朝の7時半から一時間の運動クラブを立ち上げたのだ。 この人はアメリカの軍隊のマーチング・バンドにしばらくいたことがある人で、 そこで本格的な筋トレを始めたらしい。 最初にその運動クラブに参加した次の日は筋肉痛で、階段がまともに上り下りできなかった。 この夏もタングルウッドでほとんど運動をしなかったので、先週木曜、今年初めて参加してから二日間、 エレヴェーターの常用者になった。 30秒ずつ、腕立て伏せ、腹筋、その場でジャンプ、その場で膝上げかけっこなど、 色々な運動メニューを彼の号令に従って次々とこなす。 それが10分のセットで、間に2分の休憩を入れて、2セット。 そのあと、階段12階を駆け足で上り下りさせられる時もあれば、 ウサギ跳びとか、腕を頭の後ろで組み深くジャンプして50メートルの距離を行ったり来たりする、とか 根性物のマンガに出てくるようなしごきメニューである。 息は切れるし、汗はべとべとだが、参加者はどんどん増え続け、 今日は22人、120人居る全校生徒中、六分の一の参加になった。。 去年運動クラブが始まったばかりの時は、途中気分が悪くなったり、実際吐く子もいた。 こういうのは大抵男の子だ。 適当にずるしたりしないで(俺はできるんだ)と、歯をくいしばってやるからそうなる。 私は苦しくなると(あ、靴の紐がほどけそうー結び直そう)、とか、(ちょっと水分補給)とか すぐずるするので、絶対に気分は悪くならない。 そして、そうしていても、汗はべとべと、息はぜーぜー、次の日は筋肉痛なのである。 でも、激しい運動で始めた一日はいつも機嫌良く進む。 脳内で分泌されるエンドルフィンのせいか、それとも体にやっぱり良いのか。 苦しくても、病みつきになってしまう。 そして今週末は学校からサーフィンの一日体験の遠足がある。 学校の大盤振る舞いで、破格の15ドルで、必要な物がすべて借りられ、レッスンが受けられる。 今から楽しみである。

運動 Read More »

観劇、イヨネスコの「椅子」

荷物整理の際、爪をはがして今週末は練習を断念したので、変わりに劇を見に行った。 Theatre of the Absurd(不条理演劇)を代表するルーマニア出身のイヨネスコの書いた 「The Chairs」と言う作品。 この劇は日本語訳が無いようなので、かいつまんであらすじを書きます。 この劇に出る役者は3人だけ、そのうちの一人、「orator(演説者)」は最後の5分だけの登場。劇のほとんどは老夫婦役の二人が演じます。二人はお互いに支え合って、苦労の多い人生を送ってきたことをうかがわせる会話をします。そのうちに、夫が一生涯かけて書いた、人類に贈るある重要なメッセージが今日発表される、と言うことが明らかになります。発表の為に招待されたお客さんが到着し始めます。このお客さんたちはすべて架空で、役者はパントマイムでお客さんがいるように演技をします。お客さんが到着するたびに二人は舞台にイスを運び込みます。お客さんはどんどん到着し、舞台は椅子でいっぱい!軍の高官や、王様まで来ます。しかし、夫はメッセージは「演説者」に託した、自分ではうまく伝えられない、と遅れている「演説者」を待つよう、みんなを諭します。ついに演説者の到着。場内は興奮の渦!その中で老夫婦は「やることは全部やった。残る望みは二人で一緒に死んで、一緒に埋めてもらうことだけ」と、突然一緒に自殺してしまいます。騒然とする中、演説者が沈黙を要請するジェスチャー。ところが、演説者は(ここのところが、台本ではどうなっているのか、この製作ではよく分からなかったのですが)、聾唖者なのか、知恵遅れなのか、言葉の通じない外国人なのか、その日たまたまうまく喋れなかったのか、とにかくメッセージを伝えることができません。演説者本人は、伝えるために色々努力と工夫をして、最後には満足げにお辞儀をして、劇は終わり。 不条理演劇の劇作家で一番有名なのはサミュエル・ベケットです。セリフは繰り返しが多く、少しつじつまが合わなく、でもとても意味深で、なんだか不思議です。この劇はドタバタ喜劇の要素もあり、それからセリフが音楽的で面白かったが、演技はまずかった。タングルウッドで声楽家のレッスンで、言葉の意味をどう考え、どう発音し、どう表現するか、と言うことを厳しく追及するところをそばで体験してから、役者の演技にとても批判的になってしまった。NYでも、セントラル・パークで上演される劇を見に行ったが、なかなか満足できなかった。演劇と言うのはそんなに難しいものか。なんだか、自分で挑戦してみたい気がしてしまう。

観劇、イヨネスコの「椅子」 Read More »

練習の代りに

金曜日の夜、夏休み中倉庫に入っていた大荷物を部屋に運び込み、大整理をしていたらば 右の人差し指の爪の先っぽがちぎれてしまった。 爪の中のピンクの肌があらわになって、ちょっとひりひりして痛かったので、 この週末は練習は控えることにした。 ちょっとひどい深爪くらいのものだし、夏前の私だったら疑いなく練習していたと思う。 でも、タングルウッドの後、いろいろ考察することあって、その一つに 私は今まで練習しすぎて、その為に多くのものをむしろ失っていたのではないか、と言うことがあるのだ。 惰性で弾いてしまい、音に鈍感になり、音楽が当たり前になる、と言う状態。 その状態を脱出すべく、今回のはがれ爪は良い機会、と思い、練習をしなかった。 その代りにまず、いろいろな作曲家によるエッセーを読んだ。 タングルウッドでのブログで何回も 「現代曲考察については、いつかきちんとまとめて書く」 と、宣言したが、未だに実行ができないのは、考えれば考えるほど色々分からないからだ。 だから、作曲家たちは何を考えて、この方向に音楽を動かして行ったのか読んでみた。 大きく分けて、19世紀末期、20世紀初期の作曲家たちは2つに分けられるかも。 一つは非常な客観主義。音楽のそれまでの伝統的な文法に見切りをつけて、感情表現の手段では無く、ただ単に自分の五感で感じ取った外界の描写として、自然に存在するのに近い音を自分なりに整理したものを「音楽」とする。印象派のドビュッシーを始め、Emersonや、Thoreauに触発されたアイヴスの超越主義、それから意外なところではブゾーニもどちらかと言えば、こちらに近い。 もう一つは非常な主観主義。もともと教会や宮廷の為にはっきりとした社会的役割を持っていた西洋音楽は、啓蒙主義(ベートーヴェン)以来、自己表現の為の音楽に変わる。それがロマン派で、より感情を強調した方向に持って行かれ、さらにフロイドの登場で、自分にも意識し得ない、意識下の世界の探索の手段としての芸術、と言うことで表現主義がウィーンに登場。社会的常識を超越した、野性的、暴力的な表現。ショーンベルグを始めとする、ウィーン第二学派はこちらに属する。 ドビュッシー、ブゾーニ、アイヴス、ベルグ、ウェーバーン、そしてショーンベルぐによるエッセーを読んだ。実に興味深かった。そして作曲家たちはみんな、かわいそうになるほど一生懸命だった。 はじめは、「練習できないからお勉強でもするか」とちょっと義務感から始めた読書だったが、面白かった。

練習の代りに Read More »

ベートーヴェンの「告別」

練習の仕方が随分変わった。 音楽の聴き方、接し方が変わったことによる当然の結果だと思う。 今、11月の日本でのリサイタル・プログラムを練習しているが、 ベートーヴェンのソナタ26番、作品81aの「告別(Les Adieux)」で今日発見が在った。 11月のプログラムは「歴史を反映する不協和音」と言う題名にして 主に第一ウィーン学派(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト)から いかにして必然的に第二ウィーン学派(ショーンベルぐ、ベルグ、ヴェーバーン)に至るか、 と言うテーマのリサイタルにするつもりだ。 シューベルトのソナタ19番(ハ短調)や、モーツァルトの半音階を多く使う実験的小品を数々、 そしてベルグのソナタ、作品1番を入れるつもりだが、 先生の要請で「告別」も練習している。 しかし、この曲は少なくとも和声的にはかなり単純で、このテーマにはそぐわないような気がしていた。 ところが、タングルウッドの後初めて、遅ればせながらさらってみて、 この曲の劇的な部分、さらに言えばオペラチックな部分、が急に見えてきた。 タングルウッドで「ドン・ジョバンニ」をリハーサルの段階から何度も見学してやっとわかったと思う。 凄く嬉しかった。 今日は、やっと荷物を全部ほどき、部屋をすべて整理した。 初心を忘れずに、一年丁寧に頑張ろうと思う。

ベートーヴェンの「告別」 Read More »