観劇、イヨネスコの「椅子」

荷物整理の際、爪をはがして今週末は練習を断念したので、変わりに劇を見に行った。 Theatre of the Absurd(不条理演劇)を代表するルーマニア出身のイヨネスコの書いた 「The Chairs」と言う作品。 この劇は日本語訳が無いようなので、かいつまんであらすじを書きます。 この劇に出る役者は3人だけ、そのうちの一人、「orator(演説者)」は最後の5分だけの登場。劇のほとんどは老夫婦役の二人が演じます。二人はお互いに支え合って、苦労の多い人生を送ってきたことをうかがわせる会話をします。そのうちに、夫が一生涯かけて書いた、人類に贈るある重要なメッセージが今日発表される、と言うことが明らかになります。発表の為に招待されたお客さんが到着し始めます。このお客さんたちはすべて架空で、役者はパントマイムでお客さんがいるように演技をします。お客さんが到着するたびに二人は舞台にイスを運び込みます。お客さんはどんどん到着し、舞台は椅子でいっぱい!軍の高官や、王様まで来ます。しかし、夫はメッセージは「演説者」に託した、自分ではうまく伝えられない、と遅れている「演説者」を待つよう、みんなを諭します。ついに演説者の到着。場内は興奮の渦!その中で老夫婦は「やることは全部やった。残る望みは二人で一緒に死んで、一緒に埋めてもらうことだけ」と、突然一緒に自殺してしまいます。騒然とする中、演説者が沈黙を要請するジェスチャー。ところが、演説者は(ここのところが、台本ではどうなっているのか、この製作ではよく分からなかったのですが)、聾唖者なのか、知恵遅れなのか、言葉の通じない外国人なのか、その日たまたまうまく喋れなかったのか、とにかくメッセージを伝えることができません。演説者本人は、伝えるために色々努力と工夫をして、最後には満足げにお辞儀をして、劇は終わり。 不条理演劇の劇作家で一番有名なのはサミュエル・ベケットです。セリフは繰り返しが多く、少しつじつまが合わなく、でもとても意味深で、なんだか不思議です。この劇はドタバタ喜劇の要素もあり、それからセリフが音楽的で面白かったが、演技はまずかった。タングルウッドで声楽家のレッスンで、言葉の意味をどう考え、どう発音し、どう表現するか、と言うことを厳しく追及するところをそばで体験してから、役者の演技にとても批判的になってしまった。NYでも、セントラル・パークで上演される劇を見に行ったが、なかなか満足できなかった。演劇と言うのはそんなに難しいものか。なんだか、自分で挑戦してみたい気がしてしまう。

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練習の代りに

金曜日の夜、夏休み中倉庫に入っていた大荷物を部屋に運び込み、大整理をしていたらば 右の人差し指の爪の先っぽがちぎれてしまった。 爪の中のピンクの肌があらわになって、ちょっとひりひりして痛かったので、 この週末は練習は控えることにした。 ちょっとひどい深爪くらいのものだし、夏前の私だったら疑いなく練習していたと思う。 でも、タングルウッドの後、いろいろ考察することあって、その一つに 私は今まで練習しすぎて、その為に多くのものをむしろ失っていたのではないか、と言うことがあるのだ。 惰性で弾いてしまい、音に鈍感になり、音楽が当たり前になる、と言う状態。 その状態を脱出すべく、今回のはがれ爪は良い機会、と思い、練習をしなかった。 その代りにまず、いろいろな作曲家によるエッセーを読んだ。 タングルウッドでのブログで何回も 「現代曲考察については、いつかきちんとまとめて書く」 と、宣言したが、未だに実行ができないのは、考えれば考えるほど色々分からないからだ。 だから、作曲家たちは何を考えて、この方向に音楽を動かして行ったのか読んでみた。 大きく分けて、19世紀末期、20世紀初期の作曲家たちは2つに分けられるかも。 一つは非常な客観主義。音楽のそれまでの伝統的な文法に見切りをつけて、感情表現の手段では無く、ただ単に自分の五感で感じ取った外界の描写として、自然に存在するのに近い音を自分なりに整理したものを「音楽」とする。印象派のドビュッシーを始め、Emersonや、Thoreauに触発されたアイヴスの超越主義、それから意外なところではブゾーニもどちらかと言えば、こちらに近い。 もう一つは非常な主観主義。もともと教会や宮廷の為にはっきりとした社会的役割を持っていた西洋音楽は、啓蒙主義(ベートーヴェン)以来、自己表現の為の音楽に変わる。それがロマン派で、より感情を強調した方向に持って行かれ、さらにフロイドの登場で、自分にも意識し得ない、意識下の世界の探索の手段としての芸術、と言うことで表現主義がウィーンに登場。社会的常識を超越した、野性的、暴力的な表現。ショーンベルグを始めとする、ウィーン第二学派はこちらに属する。 ドビュッシー、ブゾーニ、アイヴス、ベルグ、ウェーバーン、そしてショーンベルぐによるエッセーを読んだ。実に興味深かった。そして作曲家たちはみんな、かわいそうになるほど一生懸命だった。 はじめは、「練習できないからお勉強でもするか」とちょっと義務感から始めた読書だったが、面白かった。

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ベートーヴェンの「告別」

練習の仕方が随分変わった。 音楽の聴き方、接し方が変わったことによる当然の結果だと思う。 今、11月の日本でのリサイタル・プログラムを練習しているが、 ベートーヴェンのソナタ26番、作品81aの「告別(Les Adieux)」で今日発見が在った。 11月のプログラムは「歴史を反映する不協和音」と言う題名にして 主に第一ウィーン学派(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト)から いかにして必然的に第二ウィーン学派(ショーンベルぐ、ベルグ、ヴェーバーン)に至るか、 と言うテーマのリサイタルにするつもりだ。 シューベルトのソナタ19番(ハ短調)や、モーツァルトの半音階を多く使う実験的小品を数々、 そしてベルグのソナタ、作品1番を入れるつもりだが、 先生の要請で「告別」も練習している。 しかし、この曲は少なくとも和声的にはかなり単純で、このテーマにはそぐわないような気がしていた。 ところが、タングルウッドの後初めて、遅ればせながらさらってみて、 この曲の劇的な部分、さらに言えばオペラチックな部分、が急に見えてきた。 タングルウッドで「ドン・ジョバンニ」をリハーサルの段階から何度も見学してやっとわかったと思う。 凄く嬉しかった。 今日は、やっと荷物を全部ほどき、部屋をすべて整理した。 初心を忘れずに、一年丁寧に頑張ろうと思う。

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「そこにある」と思って見るから見えるもの、数々

今回、夏を終えてロスに帰ってくる道中、ずっとこの事を考えるに至ったのには次の様なきっかけが在った。 私はできれば身軽に旅したい人なのだが、演奏用のドレスや靴、楽譜がどっさりに録音機具などなど、どうしても荷物が大きくなる。特に今回のように、現在の私の拠点であるロス出発から帰ってくるまで3か月かかる場合は、飛行機会社の荷物規定に収めるのが一苦労である。その荷物の山を一人で運ぶのは結構大変だ。今回は特にその前のNY滞在が色々と忙しく、出発前夜まで色々なミ―ティングで荷造りを始めたのが深夜近く、結構疲れた状態で出発する羽目になった。その上NJのホームステイ先から電車に乗って、マンハッタンで空港行きのバスを捕まえ、飛行機も安いチケットを買ったので何回か乗換がある、結構ハードな旅程だったのだ。(本当に一人で大丈夫かなあ?)と言う不安の裏返しの、(一人でもできる!真希子は強い子!)と言う闘争心にも似た、もしかしたら自己憐憫も混じった、頑なな気持ちでの出発となった。 NJの電車の駅に電車が滑り込んでくる。 ホームから電車の車両まで、数段の階段を登らなければいけない。 下唇を噛みしめて、3つの荷物の二つを同時に押し上げたが、一番重い、巨大なスーツケースがまだ一つホームに残っている。階段を駆け下りてスーツケースに手をかけた所で、若い車掌さんが通りかかった。 「手伝いましょうか」 と声を掛けてくれたが、同情は御無用、義務感からの親切心はお断り!と 「一人でも大丈夫です、ありがとう」 と断ってしまった。そしたらその人はちょっとしょんぼりした感じで 「じゃあ、ここに立ってますからもし必要だったら手伝わせてください」と言ったのだ。 私ははっとしてしまった。 あまりに必死で、人の親切が見えなくなっていた。 私にもう少し余裕があって、助けを求める素直さがあれば、他にも手を差し伸べてくれる人はいたかも知れない。でも私があまりに険しい表情で一生懸命頑なだったから、きっとこの車掌さんだって声をかけるのに勇気が必要だったのだ。悪いことをしてしまった。 息を一つ吐いてから「じゃあ、とても重くて申し訳ないけれど、助けていただけますか」と言ったらば、車掌さんはにっこりとして私のスーツケースを担ぎあげてくれた。 そう思って周りを見回すと、優しい人、いろいろな親切が急に見えるようになってくる。 マンハッタンで空港行きのバスを待っている時、突然トイレに行きたくなった。でも大きなスーツケースを二つ担いで、「お客様以外お断り」の札が蔓延するマンハッタンでどこでトイレに行けるのか。高級そうなホテルに入った。 でもホテルのロビーのトイレは、部屋用の鍵で開けるようになっている。ドアの前で途方に暮れていたらば、まだ10代になるかならないかの女の子が恥ずかしそうに近づいてきて、ピッと自分の鍵を差し込んで私の為にドアを開けてちゃんとスーツケースを運びこむまで待ってから、そっと立ち去ってしまった。飛行機に乗り込む時、一人ダウン症の男性がいた。一人旅になれないのか、なんだかきょときょと周りを見回して緊張した様子だ。そしたらスチュワーデスが近寄って行って、さりげなく話しかけ始めた。「今日は本当に暑いですね」。周りは乗り込む乗客でほとんど殺気立ったような状況だ。しなきゃいけないことは色々あるだろう。でも、そんなことはみじんも感じさせずに、ゆったりとにこやかに話しかけている。涙が出そうになった。 優しさ以外にも、「そこにある」と思ってみて、始めて見えてくるものは沢山あるような気がする。 「美」 好運 時間とか余裕 可能性とか、能力 など、など。 など、など。

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移動日

5月26日から6月16日まで日本に居て、 そのあとNJ/NYで6月21日まで時差調整と練習をして、 そのあとタングルウッドに8月17日まで居て、 そして今日8月24日、ロサンゼルスに飛ぶ。 こういう風に移動が多いと滞在期間より、滞在場所で自分が記憶の枠組みしているのが分かる。 振りかえって見ると、2か月近いタングルウッドとそのあとの実質五日のNY/NJが、 なんだか同じくらい色々在った気もしたりする。 これから、学校生活が始まる。 コルバーン(The Colburn Conservatory of Music)と言う、 学費、生活費、そして時には旅費など色々なキャリア・アップの為の経費まで保障してくれる学校。 2006年に入学して、本来2年なのだが、特別に4年居させてくれた。 そして、今年がその最終年、4年目である。 したいこと、達成したい目標、自分に課したい課題。。。山ほどある。 でも、この一年間、焦らずに毎日を丁寧にキチンと、暮らしていきたいと思う。 移動日は私にとって、振り返り、先を見る大事な反復、予習の時間でもある。 ドアからドアまで15時間の移動。 ゆったりと、でも有意義に過ごそう。

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