音楽

今日在った嬉しいこと三つ

最近読んだ「幸せになれる心理学」の本によると、寝る前にその日在った嬉しいことを三つ書き出す習慣を付けると、思考回路がポジティブになるそうである。今日は一杯嬉しいことがあったから3つ考え出すのは簡単だ。 まず、朝コルバーンのオーケストラの指揮をした。 コルバーンでは毎学期一週間、オーケストラが地域の小学校に出向いて出張コンサートをする。これはコミュニティー還元の意味もあるが、生徒にオーケストラと独奏する機会を多く与えたり、特に難しいオーケストラのレパートリーをプレッシャーの少ない環境で演奏してみる、とか私たちにも色々特典がある。私は指揮歴は短く、コルバーンに入学した2006年からレッスンを受け始めただけだが、にもかかわらず2007年の春から毎年、この出張コンサートで実に色々な曲を指揮する機会を与えてもらった。モーツァルトの交響曲から始まって、ベートーヴェンの「運命」、バーンスタインの「ウェスト・サイド・ストーリー組曲」、リムスキー・コルサコフの「シェヘラザッド」など、良くこんな大曲を任せてくれた、と感心するくらい色々な曲をやらせてもらった。今日やったのはロッシーニの「セビリアの理髪師」の序曲と、プロコフィエフの「古典交響曲」。去年の二月の出張コンサートから実に一年ぶりに本物のオーケストラの指揮したけれど、こういうものは一度学んだら結構覚えているものらしい。最初はちょっと膝がびくびくしていたが、最後は本当に気持ち良く腕を振り回していた。子供も大喜びしてくれたし。 午後は免許の更新に行った。実は去年の11月多忙の最中に急病で、免許が切れてしまってそのままにしてあったのだ。私は車を所有していないので、とりあえず不便は無いのだけれど、旅先でどうしても運転しなければいけない場合があり、やはりこれはどうしても片づけておきたかった。でも、筆記の試験があるし、期限切れた免許証の保持者は実地試験もあるかも知れない、と言うことで本当に怖かったのだ。でも、晴れて筆記はギリギリ合格、そして実地試験は免除!筆記試験の採点をしてくれた受付の叔母さんは非常に愉快な人で、採点しながら、間違えを見つけるたびに「あら~」、「おや~」とか、感嘆詞を実に気前よく出してくれ、最終的にギリギリで合格した時は「素晴らしい!よかったですね~」と大げさに褒めてくれて、それも嬉しかった。 最後に嬉しかったのは、小さいことなのだけれど、キャフェテリアのコックさんがいつも私をひいきにしてくれて、量を多めにしてくれたりする。今日のパスタの盛り付けの時にパセリとバジルをド派手にパッパっと振ってくれて、新鮮なバジルが凄く香り高かった。 今日は良い日でした。

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オーケストラ奏者の悩み

今日は面白いアルバイトをした。 サンフランシスコのオーケストラの団員をしているヴァイオリニストとブラームスのソナタを弾いたのだ。 しかもコルバーンの予備校の発表会で。 私が今在校しているのはコルバーンと言うロサンジェルスに在る音楽学校だ。この学校には二つの独立した学部がある。一つは私の属しているプロ養成コース。学費は勿論、生活費、そして時にはプロ活動の為に必要な資金まで支援してくれる、夢のようなプログラムだ。このプログラムは定員が120人以下と決まっている。もう一つの学部はオーディション無しで希望者を誰でも受け付けるコミュニティーの音楽学校。大体が音大受験準備中の高校生だが、中には幼児用英才教育のクラスや、高齢者の為のクラスなどもある。千人以上の生徒が居る。時間があったり、特にお金が要り用な時は、私たちプロ養成コースのピアニスト達は、時々このプログラムの雇われ伴奏をする。今回の発表会はこの予備校の仕事だった。 先週末、発表会での伴奏依頼の電話が来た時、声が大人だったので子供の為にお父さんが電話をかけて来たのかと思った。今日リハーサルに来て見てびっくり。そして一緒に弾き始めてさらにびっくり。彼はサンフランシスコのオーケストラでフルタイムで働いている、プロのヴァイオリニストだったのだ。彼曰く、オーケストラで毎日弾いていると、演奏技術がどんどん落ちるのだそうだ。オーケストラの団員としての奏法と言うのは割と変化に乏しく、しかも音を周りと溶け込ませることを常に要求されるため、どんどん音が小さくなり、演奏が小さくなるような危機感を覚えた、とのこと。火曜日から日曜日までリハーサルや演奏会で拘束されるフルタイムのオケ団員の唯一の休日は月曜日だ。その月曜日を利用して、朝一番の飛行機でサンフランシスコからロサンジェルスまで飛んできて、レッスンを受け、練習室で練習をし、そして夜行われるおさらい会や、発表会で高校生に交じって演奏をして、ロス発最終の飛行機でサンフランシスコまで戻って火曜日の朝のリハーサルに間に合わせる。 本当に、心から脱帽して、触発された。 プロ養成コースの生徒の中には、一回フルタイムのオケの仕事をゲットしてしばらく働いていながら、その仕事を蹴って、コルバーンに勉強し直しに来ている人が何人かいる。オケの仕事と言うのは本当に倍率が高い。何百人、時には何千人に一人と言う確率のオーディションに合格し、ゲットした仕事を棄てて学校に戻ってくるのは、皆自分の可能性の限界に試したい、と言う音楽家としての欲を優先させるからだ。そう言う友達を勇気がある、と思って尊敬していたが、仕事を続けながら自己向上を試みる人には初めて在った。 最近、音楽史の教科書を読み返していたらば、その一番最初にプラトンとアリストテレスの音楽に関する哲学に関する言及があった。その中でアリストテレスがこんなことを言っているのに感銘を受けた。「音楽と言うのは感情を表現したり、感情に影響を及ぼしたり出来る。だから仁徳や、道徳を教育するために、若者には音楽を教育するべきである。しかし、超絶技巧を見せびらかしたり、競争の為に技術向上を目指す音楽と言うのは、他人を喜ばすための、意地汚い、卑しいことである。音楽の訓練は、常に自己向上の為だけに使われるべきである。今日在ったヴァイオリニストも、オケの仕事を蹴ってコルバーンに修行し直しに来た私の友達も、皆音楽を通じての自己向上に人生をかけているんだなあ、と思った。

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先入観 vs. 予備知識

この前のブログで、ポップスのコンサートに行くファンと言うのはコンサートに行く前にすでに覚えるくらい演奏される曲を何回も聞いているらしい、と言う内容のことを書きました。クラシックの演奏会でも「耳馴染みのあるものを」と希望されることは良く在りますし、アンコールでドビュッシーの「月の光」や「革命のエチュード」など、有名な曲を弾くと、聴衆の皆さんがワッと盛り上がるのが分かる時があります。 でも、ここがクラシカル演奏家のジレンマなのですが、西洋クラシック歴史は実に300年以上あり、レパートリーは星の数より多く在ります。すでに知っている曲よりも、これから耳馴染みになってほしい曲を紹介したい!と言う意欲も、自分自身がまだ演奏されることの少ない曲に挑戦してみたい、と言う欲も在ります。それに300年の歴史の膨大なレパートリーの中で有名なのは数えるほどの曲のみ。普通に選曲すれば、有名な曲に当たる確率の方が低い、と言う事実も在ります。 そのギャップを埋めるべく私を始め多くの演奏家が最近試みているのが、演奏の合間に曲や、曲の背景を紹介するトークを入れる、と言うことです。プログラム・ノートの解説は理屈っぽくなる傾向があるのに比べ、トークでしたら聴衆の皆さんの反応によって臨機応変に内容を変えていくことが出来ますし、質問を受け付けたり、時にはお客様にコメントを付け加えていただいたりすることも出来ます。でもこれにも問題は在って、演奏者の解釈が聴衆に曲に対する先入観を与えてしまう危険性がある、と言うことです。私は出来るだけ事実に徹したトークをしようと心がけていますが、それでもアドリブのトークですので、どうしても私の好み、嗜好がにじみ出てしまいます。 先週、ロサンジェルス・タイムスと言う大手新聞の音楽評論家、マーク・スウェードと言う人の講義を聞く機会に恵まれましたが、彼によると、この頃増えてきた、演奏会で演奏者による曲の解説と言う流れに反発して、最近曲目を印刷したプログラムを配布することもせずに、何の情報も聴衆に与えないで曲を演奏する、と言うコンサートの試みが行われているそうです。先入観を全て取っ払って、音楽を音楽としてのみ、聞いていただきましょう、と言うことだそうです。これはとても面白い試みだと思いますが、でも聴衆がかなり積極的に曲に興味を持って想像力を働かせてくれないと、退屈してしまうかも知れません。演奏者の腕や気合いにもよると思いますが。 私はこういうことを試みてみたい。 2時間の独奏会の前半と後半を全く同じ曲を弾きます。 でも前半は、プログラム無し、トーク無し、先入観無し。 そして休憩中に曲の解説のトーク、さらに質問会をして、プログラムを配り、後半が前半と、同じ曲ながら得た知識によってどういう風に違って聞こえるか、体験してもらうのです。

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クラシック vs. ポップス

私はロックとか、ポップスとか、普通の若い人が喜んで行くようなコンサートに行ったことが無い。 しかし、最近「マライア・キャリーが好き」と言う人の話を聞く機会があった。この人はマライア・キャリーのコンサートに何回も言っており、今までの人生で一番幸せな思い出はそのコンサートでも特にクリスマスの特別企画のコンサートだそうだ。こういうコンサートには何千人、何万人と言う聴衆が動員される、と言う知識は私も持っている。一体この人たちは何を求めてこういう演奏会に多額の料金を払って行くのか?こういうイベントと、クラシックの演奏会トは何が違うのか? この人によると、こういうコンサートでは周りが熱狂して叫んだりしているので、音楽はほとんど聞こえないそうである。 でも、大抵の曲はもう何回も聞いて覚えているので、かすかに聞こえる最初のイントロであとは自分の頭の中で勝手に鳴ってくれるので、別に聞こえなくても支障無いそうだ。新曲とか、たまたま自分が知らない曲は、後で買って聞くから良いそうだ。要するに、自分と同じくマライア・キャリーで興奮出来る人たちと、時空を共にしてマライア・キャリーを身近に見る、と言うことに意義があるようだ。 この間のブログで、河合隼雄さんが「芸術とは作者が意図した以上の意味を持ち得る深みを持った作品」と云ったのを読んで感銘を受けた、と書いた。この定義によれば、マライア・キャリーのコンサート自体は余りにも視覚、聴覚に解釈を与える隙を与えないほどの刺激を与えるので、芸術とは言えないかもしれないが、マライア・キャリーと言う歌手そのものは「芸術作品」と言えるのではないか。プロデューサー、演出家、衣装のデザイナー、そう言う人たちが寄ってたかってファンを熱狂させるある幻想をマライア・キャリーを通じて、作り上げる。 どうだろう? それとも、解釈の余地は無く、ファンは皆興行者の思うつぼにはまって皆同じ夢を見ながら踊らされているだけなのだろうか?だったらちょっと空恐ろしい気もちょっとする。 マライア・キャリー自身の才能とか、存在感と云ったものを全く無視した書き方になったが、でも、どんなに一人の人に才能があっても一瞬で何万人の人を熱狂するパワーと言うのはテクノロジー抜きには不可能な話で、やっぱり不自然なことだと思うのだ。

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1時間の演奏=10時間の練習!?

私の友達のジョンは凄く気前が良く、友達思いで、さみしがり屋のパーティー好きだ。 同級のピアニストなのだが、何かにつけておもてなしをしてくれる。 今週末本番を迎えるピアニスト3人の為に「弾き通し会」を開いてくれた。 最近購入したカワイのピアノがある自分のアパートに私たち3人と友達数人を招待して、私たちが約一時間ずつプログラムを通すのを見守ろう、と言う企画だ。彼曰く、「1時間の演奏は10時間の演奏に値するんだよ!一人で寂しく練習するより皆の前で一回演奏した方がずっと楽しいし、ずっと効率の良い学習になるよ!」とのことだ。チャンとワインを購入してあって、聞き役についで回り、弾き終わった人にも注いでねぎらってくれる。普通の演奏よりはずっとリラックスした環境で、皆はとても良い演奏をし、3人とも弾き終わった後は先生のエピソードなどで盛り上がり、とても楽しい会となった。 「演奏が学習方」と言うのも一つの考え方だと思うが、私は本番直前の練習、と言うのは何物にも代えがたい、と思っている。本番が念頭に無くてする練習と言うのは、どうしても観念的になる。変な微細にこだわってしまったり、趣味的に一つのパッセージを何度も意味無く繰り返してしまったり。でも、本番前の練習はずっと実際的だ。実現したい音、イメージ、躍動、感情に近づくべく、一音一音、一瞬一瞬を固めていく。頭がどんどん冴える様な、どんどん耳が澄んで行くような、大げさに言うと、生きる目的に疑いの余地が無くなるような、凄い充実感だ。 今日は半日そういう練習をして過ごした。 特に昨晩の「通し稽古会」の復習で、より目標がはっきりしていたので本当にやりがいがあった。 良い日だったなあ、と思う。

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