音楽

レッスンの復習 ~バランスの問題。

学部生の頃とった哲学のクラスで聞きかじったことなので間違っているかもしれないけれど、キリスト教の人が「父と子と聖霊の御名において」と上半身の前で十字を切る、あれは知能・感情・そして行動のバランスを取る、と言う意味で額と心臓、そして両肩を触れるのだ、と聞いた。二週間ほど前のブログで「頭で考えすぎで、考えたことが自然に音に出ていない」と色々な人のレッスンで一貫して注意される、と云った趣旨のことを書いた。その後自分なりに思考錯誤を繰り返し、自信満々で今日もう一度レッスンに向かったところ「気勢は良いが、余りに意気込み過ぎて、自分の音が聞こえていない。聞こえていないために、感情が効果的に伝わっていないところが多々ある」と注意されてしまった。今度は行動に走りすぎたようだ。 はあ~。 レッスンで指摘してもらって、「ほら」と見せてもらうと「本当だ!どうして言われるまで気がつかなかったんだろう」と思うし、すぐ直すこともできる。でも、練習してるとずっと自分の世界で自分の音に浸って試行錯誤するわけだから、やればやるほど見えなくなる、聞こえなくなる、と言うのもあるのだ。 だから、レッスンしてもらうんだし、良い先生にレッスンしてもらえる機会に恵まれて嬉しいけど。

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パーティーで弾く、と言うこと

私がまだ初々しい学部生の時、先生がこんな話をしてくれた。 この先生はとても皮肉なユーモアのセンスに長けた人で、 いつも音楽家 vs。世界と言う、「いかに芸術や教養に理解の無い世界で戦っていくか」系の話が多かった。 彼自身の演奏会のあとの彼を讃えてのレセプションで、聴衆の一人「A」からアプローチされた。 A: 「素晴らしい演奏会でした。ところで、そこにアップライトがありますが、ちょっと弾いていただけませんか」 先生: 「ふ~ん、面白い提案ですね。ところで、あなたの職業はなんですか?」 A: 「私は医者ですが」 先生: 「素晴らしい職業ですね。ところで、そこに豚の丸焼きがありますが、解剖してみせてくれませんか」 パーティーに行くと、良く「ちょっと弾いてくれ」と言われる。 まだ若い時は、結構喜んで頼まれれば弾いていたこともあった。 でも、普通の家やパーティー会場、学校に在るピアノと言うのは必ずしも良いコンディションに無い。 弾いている最中にペダルがさびていて、「ポロッ」と取れてしまったことがある。 調律が半音以上狂っていて、私は絶対音階があるので混乱してしまって、散々だったこともある。 ピアノが大丈夫でも「弾いて」と頼んだのは向こうなのに、曲の最中に明らかに退屈されて悲しい時もある。 両親が帰国した後16歳で単身でアメリカに残った私はアメリカ人老夫婦に引き取られ、ホームステイをして高校生活の残り、1年半を過ごした。私はいわゆる「難しい年頃」だったし、英語がうまく喋れない恥ずかしさ、もどかしさ、寂しさで、非常にひねくれて、大変扱いにくい子供だったと思う。私のアメリカン・ペアレンツは大変善意に満ちた、古き良きアメリカ人だし、私が高校を卒業して約束の期間が終わった後でも私のピアノと私の部屋をそのままにしておいてくれ、今では本当に家族だ。でも本当に「家族」になるまでは、山あり谷ありの道のりだった。一番の険悪の原因はいつもこの「パーティーでの演奏」だった。社交好きの夫婦だから、ほぼ毎週お客様をする。お客さんは大抵私より何世代も年上である。言葉の壁もあるし、共通の話題も無い。"Children should be seen, not heard (子供は見て可愛いだけで、口を開かせるものではない)”と言う憎たらしいアメリカのことわざがある。私はいわゆる“child"と言うには年齢も自意識も過ぎていたが、言葉のハンディキャップにおいても、「好意で受け入れてもらっているアジアからの留学生」と言う立場上も、「子供」だった。私は食事中は黙りこくり、お皿の出し下げ、飲み物を継ぎ足したり、お手伝いに徹する。そして食事が終わり、アメリカン・マザーがデザートをを準備する間、 即されて、ピアノを弾く。始めはせめてものお返し、と言う気持ちもあったし、特に問題意識は無かった。でも明らかに迷惑そうに耐えているお客もいる。ポップスのリクエストを出したり、私の演奏について物知り顔で批評をするお客もいる。BGM扱いで喋り続けるお客もいる。逆に泣いて感激してくれたお客さんだっているし、良い演奏の練習になったと考えられなくもないのに、なぜこんなにこの「パーティーでの演奏」に嫌悪感を催すようになったのか。何度も怒鳴りあいのけんかをした。お客さんの前で派手にやりあったこともある。つたない英語で、何度も説明しようとした。私にとって音楽は宗教の様に大切なもので、でもあなたにとってはエンターテイメントでしかない。人の「宗教」を指をさして面白がったり、人に見せびらかして自慢したり、食後の娯楽にしたりするな! でも、そこまで言ってしまったら、演奏会で演奏するのだって結局だめになってしまう。ショーンベルグは理解の無い一般聴衆、そして言葉の尽くして彼の作曲をこき下ろす批評家に業を煮やして、招待された理解者しか聴衆の一員に入れない毎月一回の演奏会を始めた。ミルトン・バビットは「Who cares if you listen?(聴いてくれなくたって気にしない)」と言うエッセーを書いた。その趣旨は作曲家が聴衆に媚を売る様になったらおしまいだ。大学などの教育機関が作曲家の生活を保障し、作曲家の生活がチケットの売り上げと関係無くするべきだ、と言う非常に反感と注目を浴びた歴史的なエッセーだ。私はミルトン・バビットと同じなのか?クラシック音楽は美術館や、博物館や、大学だけに存在するもので良いのか? 昨日、ジョーン(私のアメリカン・マザー)の75歳の誕生日パーティーが盛大に開かれた。保護者は、私の言い分を理解したわけではないが、喧嘩を避けるためか、尊重を態度で示すためか、もう何年も私に演奏を強要をすることをしていない。でも先週、何年かぶりに「今度のパーティーで弾くのも、いやなの?」と泣き声で聴かれた。私は一週間迷い続けた。私の言い分は理屈にかなっているのか。私自身のピアノは地下にあり、パーティーで演奏する、居間に在るピアノは、ワインの染みが痛々しい、ほとんどインテリアの為に買われた家具の様なピアノである。 音色がどうの、歌心がどうの、と言う余地のない、不本意な演奏になる。でも、サロンで演奏して金持ちとこねを作らなければ、音楽家として生活を立てられなかったロマン派の作曲家はどんなピアノでも弾いたはずだ。そして、貴族の召使として作曲や演奏をした、古典派の作曲家は、どうなるのだ。音楽とは、何か。「芸術」と「娯楽」の違いは何か。 高校生だった私に選択の余地がほとんど与えられていなかった、と言うことが一番の問題だったのかもしれない。これは私の音楽を大切に思う気持ちよりも、若かった私なりの最後の自己主張だったのかも。それに、今は私のアメリカン・ペアレンツもどんどん高齢になって来て、私は大人になり、晴れて英語にも不自由しなくなり、私は前の様に弱い立場ではない。私が強く拒否すれば、向こうは受け入れるしかないし、私が弾く選択すれば、喜んで感謝してくれるだろう。それでも一週間迷ったのは、ここで弾いてしまったら高校生の自分を裏切るような、あんなに一生懸命主張したことを覆すような、はっきり言って悔しい気持ちがあった。 音楽とは、何なのか。今、音楽セラピーに関する本を読んでいて、音楽の生態学的、神経学的効果に目からうろこが落ちる思いで読んでいる。高校生の私がそんなに苦労して弾くことを拒否したのには「どうせ分かってくれない癖に」と言う高校生特有の傲慢な論理があったと思う。でも、「分かる」「分からない」に関係無く、音楽に時空を超えた普遍的な「人間性」をコミュニケートする力がある、と信じるから私はこの道を選んだのではないか。高齢になり、リュウマチで毎日痛み止めを飲んだり、階段の乗り降りに苦労している、私を本当の子供のように可愛がり、私のわがままにも付き合ってくれた老夫婦の、頭では無く、痛むひざ、疲れた心臓の為に、弾く選択を、しよう。 弾いた。 40人ほどのお客さんが、びっくりするほどシーンとして聴いてくれた。ジョーンは泣いて、喜んでくれた。 弾いて良かった。

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分かった!

1月7日付で書いた「自分の耳を信じる」と言うブログで、このごろ色々な先生にもっと音楽と自分の感情・感性・勘を信じて、考えることを忘れてもっと聴いて弾け、と言われ続ける、と云った趣旨のことを書いた。その文中で引用した3番目の先生にはそういう抽象的なことのほかに、随分テクニックの注意もされた。私はもう学生としてはかなり年齢が行っているし、子供の時の先生がしっかり指導して下さったおかげで、テクニックの不自由はほとんど感じたことが無い。意外に思いながら、この先生が何を私に伝授しようとしてくれているのか、一生懸命指導に従おうと努力し、その後もずっと考えていた。 ちょっと技術的な話になるが、かいつまんで説明するとこの先生が私に繰り返し言われたことは、私の身体はパッセージを弾く時に指とひじが別の所に在る、と云うものだった。肘が指が次に弾くべきところまで先に行って、肘でリードするような形になっている、しかしそうではなく、どんなに速いパッセージであってもきちんと一つ一つの音に身体を全部預けてみろ、準備をするな、先走るな、と言う指導だった。 この1月7日付けの記事にはありがたいことに色々な方から貴重なご指摘を頂いた。 他の先生に言われたことも照らし合わせながら、今練習しながらツラツラ考えていて、ハッと閃いてしまった。 「聴け」と繰り返し言われたことも、この先生の技術指導も、全て「今、現在に集中しろ」と言うことではないのか。 音楽は時間の芸術だ。今、何をどう弾いたか、次に何が来るか、全体構築はどうなっているか、全てを把握しないと安定した演奏が出来ない。でも、余りそう言う全体像や、次に来る部分のことばかり考えていると、実際の音が聴けなくなってしまう。これはバランスの問題で、反対にその瞬間瞬間に集中だけしていたら、支離滅裂な演奏になってしまう。しかし、今の私は多分、先と前を考えすぎる余り、実際の音が作り出す空気の振動や、その時の自分の受体勢をおろそかにしているのでは。 おお~、こうやって書き出してから気がついたが、これは今の私の人生観にも当てはまるかも。おお~。。。

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自分の耳を信じる。

「君はどうして音楽学者が喜ぶような選曲、解釈ばかりをするんだ!自分の腹の底に在るものをもっと信じて、もっと感情に任せて弾いてみろ!」 「君はまず理性で曲に取り組もうとする。でも、理性ばかりに頼っていると視点に偏りが出てくることがあるよ。例えばベルグのソナタで、君はこの曲の対位法の大切さに注目して、普通の人が見逃す様な内声部の細部まで丁寧に弾き切ったね。でも余りに対位法に一生懸命になる余り和声の美しさを全く無視した演奏になってしまったのには多分気がつかなかっただろう。音楽には色々な側面がある。特に西洋音楽においては、知能的・理論的・観念的な部分も大きい。その多くは感情や勘だけでは処理しきれない、理性やはっきりとした概念を持って対処しなければいけないものだ。でも、音楽の源は知性では無いんだよ。もっと原始的な、人間としてのコミュニケーションの必要性みたいなものが音楽を生み出すんだ。演奏する上では、そこをいつも踏まえていよう。そのためには、聴き続ける、と言うことだ。自分の出している音、楽譜に書かれている音を、一生懸命聴く。」  「今のシューベルトのオープニングで君は全てを楽譜通りに弾いた。スタッカートは短く、雰囲気も正しく、音のヴォリュームにおいては再現部でもっと激しく弾くことを見込 んで、少し控えめのフォルテで弾いたね。全て正しい選択だ。でも、僕には君のシューベルトが信じられなかった。感情的な意向が感じられなかった。君は頭でシューベルトを弾いている。シューベルトを本当に聴けていないよ。目をつぶってシューベルトが君をどう言う気持ちにさせるか、君がこのシューベルトに何を求めているか、頭の中ではっきり聴いてから、もう一度弾いてごらん。そうしたら、僕は君のシューベルトを信じられるはずだ。」 上の三つの引用は私が3人の別々の先生にこの一ヶ月間に言われたことだ。 私はこの5月にコルバーンを卒業する。この冬休みを利用して、卒業後の身の振り方を決めるため、色々な先生の所に出向いて、レッスンをしてもらっている。全く違った性格のピアニストたちに同じことを言われ続けると、ちょっとショックだ。特にもっと若いころの私は「個性的」「型破り」と言われ続け、楽譜を無視して好き勝手 に弾いて破門になってしまったこともある位だったのだから。私が7年間の演奏活動を経て、もう一度学校に戻って系統立てた勉強をしようと思ったのは、そう言う勘や感情だけを頼りにした自分の演奏がひどく根拠無く、危うく思われて、恐ろしくなったからだが、バランスと言うのは難しい。少し、行き過ぎてしまっ たようだ。 考えるよりもまず、聴く。聴いたものを正直に受け止め、聴いたものに自分を投影させ、それを一つの曲としてつじつまを合わせる最終段階で初めて、歴史的背景とか、当時の作曲家の心理背景などを考慮する。自分の耳、気持ち、そして経験を信じる。

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Jeffrey Swannと言うピアニストについて。

しばらくブログ更新しなかったのはマンハッタンに二泊三日していたからです。 パジャマ、楽譜、洗面道具、防寒着、その他でいつも持ち歩くブリーフケースはパンパンで、とてもパソコンは持って行けず、それに多分持って行ってもどうせ書いている時間が無いのです。今回は実に、伴奏の仕事一つ、自分のレッスン二つ、クリスマス・プレゼントの買い物、メトロポリタン・オペラで「ホフマン物語」鑑賞、そして六人の旧友とそれぞれご飯やお茶をして、大変充実した二泊三日でした。その全てについて書きたいことが色々あるのですが、今練習を休憩して是非書かなければと思い、コンピューターを立ち上げたのは今回受けた二つのレッスンのうちの一つを教えてくれた、Jeffrey Swannとそのレッスンについて、です。 Jeffrey Swannは現在50代位のアメリカン人ピアニストで、若い時は王妃エリザーベート国際コンクールの金賞、ショパン、クライバーン、モントリオール、YCA(Young Concert Artists)などの上位賞を総なめにした人で、レパートリーもバロックから近代と非常に幅広いです。(ブーレッズのソナタを全て録音しています。)その他にもワーグナーの権威ある研究者で、アメリカ人としては初めてバイロイトで講義した、と言う歴史的経歴もあります。私が今まで知り合った人の中で最も頭が良い人の一人です。例えば、彼は非常に食いしん坊なのですが、ある日中華料理店で、英語と中国語の内容が微妙に違い、中国語のメニューのほうが豊富でしかもお得、と気がついてから一念発起してついに中国語(読み・書き、喋り・聞き取り、全て)を独学でマスターしてしまった、と言う人です。私の名前の漢字なども、得意そうにすらすら書いて見せます。 私がJeffrey Swannに初めて会ったのは2004年の音楽祭で、それ以来度々機会あるごとにレッスンをしてもらっていますが、私が彼について一番尊敬するのは、その人生における態度です。はたで見ていても歯がゆく成る位、今の彼は経歴と、能力に釣り合う評価を受けておらず、かつてのレコード・レーベルもマネージメントも全て倒産。かつての栄光とはちょっと程遠い生活です。それなのに、「音楽が楽しい」、「新しい発見が楽しい」と言うことを物凄い活力にしていて、いつ見ても何かに興奮して、夢中になっているのです。私もそう言う人になりたい、といつも思います。 彼はベートーヴェンのソナタを全て録音したベートーヴェンの学者でもあるのですが、今回はシューベルト(ハ短調ソナタ、D.958)を聞いてもらいました。そこで、「シューベルトとベートーヴェンの違いをしっかり把握して弾け」と戒められ、違いが何かについて、そしてそれをどう言う風に演奏に反映するか、と言うレッスンを受けました。 手短にまとめると、ベートーヴェンとシューベルトの違いはその方向性に在るようです。ベートーヴェンはいつも、どこかに向かって進んでいる。その目的地が時に聴き手に明らかで無くても、ベートーヴェン自身はいつも向かう地点がどこだかわかって音楽を進めている。これは曲の中のハーモニー進行やモチーフの展開の仕方だけでなく、音楽史におけるベートーヴェンの自意識、と言うことでも同じことが言えるのではないかと思います。それに対してシューベルトは目的地よりもその道筋の美しさに興味があり、しばしば作曲家でありながら一瞬一瞬のハーモニーやメロディーの美しさに惑わされて、とても大回りをしてしまったり、時には堂々巡りをしてしまったりします。そう言う風に意識してみると、なるほど解釈にも随分影響が出てきます。 この音楽の二人の特性を、彼らの人生に照らし合わせてみると、また面白い。ベートーヴェンは難聴や、家族の不和など、自殺を考えるほどの困難に直面しながら、あえて意思の力で生き抜く選択をした作曲家です。それに対してシューベルトは、梅毒と言う不可抗力になすすべもなく、わずかに与えられた31年と言う短い人生の中で書けるだけ、ありったけ曲を書いた作曲家です。 さて、こうやって書いているとムクムクともっと練習したくなります。さあ、シューベルト、シューベルト。。。

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