- 今日はニュースの箇条書きとゴルトベルグ変奏曲に関する記事はお休みします。
「もう何を信じて良いか分からない。」
今日は久しぶりに二人の友達と外であった。外のベンチで離れて座って喋る。それぞれお菓子持参で、シェアやお菓子の交換は無し。飲み食いの合間はマスク。マスクが息苦しいので、時々外して深呼吸をする。3人とも音楽家。
「言論の自由は、他の人の言論の自由を奪う発言でも許すべきなのか」
何百倍の難関を勝ち抜いてオーケストラ奏者のポジションをゲットしたチェリストが、まだ10代の時に黒人差別的な発言をSNSで発信したことが明らかになり首になりそうなんだとか。
BLM(ブラックライブズマター)自体は素晴らしい社会運動だけれども、企業や団体のPRは自分たちが過去の差別でバッシングの対象にならないか戦々恐々としている。表向きにBLM支援の声明を発表しない団体には色々なプレッシャーがかかる。「これが本当に自由なのか?」
でもこれは必要悪なのか?今まで発言の機会すら与えられなかった立場にある弱者の声に耳を澄ますためには、それまで発言して来た人たちに圧力をかける必要があるのか?
音楽家として、ずっと自分自身を弱い立場の人間、そして弱い人たちに寄り添う人間だと思ってきた。でもBLM(ブラックライブズマター)で黒人が受けてきた不正や虐待を知る事になり、実はクラシック音楽家として教育を受けて曲りなりにもやって来られた自分たちが特権階級だったと気が付いた。もしかして自分たちも知らないうちに圧制の加担をして来ていたのか?クラシック音楽家として白人文化の優勢を支えて来ていたのか?これから自分たちは何をするべきなのか?
何に足掛かりを求めて、どういう立場に自分を置くべきなのか…?”I don’t even know where to stand on these issues anymore”
煮詰まった考えが流れ出てくる後輩。その問いかけに、とても共感。そして信頼して考えをぶつけてくれるのが嬉しくって、私は一瞬冴えてしまいました。
”’Standing’ isn’t what you should be doing on these issues – ‘dancing‘ is more like it. Because the ground is always shifting. Issues are always fluid. If you stand firmly on an issue, you’d fall.” (こういう複雑な問題に対しての自分の立場はこだわったらいけないんだと思う。踊るくらいの柔軟性がなくちゃ。だって複雑な問題では根底がいつも揺れているから。足を踏ん張ってたら転んじゃう!”)
3人で一瞬息を呑みました。そして大笑い。笑いながら私自身が、自分自身の言葉の啓示に驚いていました…でかした、まきこ!(自画自賛!)
でも英語のダジャレは別にして、その時は気が付かなかったけれどもこれは受け売りだったのかも、と後で思いました。
BLMのプロテストで「No Justice, No Peace!」と掛け声をかけあっているでしょ?あの「Justice(正義)」という概念は一神教から来ている。日本は、「義」はあるけど「正義」は声高に主張されない気がする。
…そう指摘してくださったのは、私が尊敬する、あの「明鏡止水」をプレゼントしてくださったMさん。
色々あんまりにも複雑すぎて、もう貝になりたい!一か月くらい黙考したい。もう喋りたくない。
そう思いながら帰宅して、この本を読みふけり、最後の10章くらいを一気に読破しました。ベトナム戦争中のスパイが戦後独房の中で書いている告白文、という形式の小説です。この最後の部分が本当に運命としか思えないくらいタイムリーだったので、ここに抜粋します。
What do those who struggle against power do when they seize power? What does the revolutionary do when the revolution triumphs? Why do those who call for independence and freedom take away the independence and freedom of others? (権力に逆らうものが権力を握った時何をするのか?革命家は革命が成功した後何をするのか?なぜ自由と独立のために全てを投げうつ者が、他者の自由と独立を奪うのか?)
ヴィエト タン ウェン著『シンパサイザー』より
黙ってただピアノを弾いていたい。明鏡止水になりたい。でも、明鏡止水は自己主張を自己責任と考える欧米人には通用しない。だから踊る阿呆になる。