マーク・ザッカーバーグ率いるメタはFacebook, Instagram, WhatsApp, MessengerそしてThreadsなどのSNSプラットフォームを運営するテクノロジーの大企業。その中枢で国際的な政策・方針に携わった元ニュージーランド外交官で国際弁護士によるサラ・ウィン=ウィリアムズが、2017年にメタから解雇された後に書いた告発暴露・回顧録。2025年3月半ばの出版前からメタの訴訟や検閲行為が評判をよび、3月末にはニューヨークタイムズのベストセラーリストNo.1になる。邦訳も2026年にスバル社から「ケアレス・ピープル:権力と欲望、失われた理想の物語」として出版。私は英語で読みました。


読み終えたのは3週間前ほど。書評を書くのに中々腰が上がらなかったのには、執筆者の「悪行や怠慢や自信過剰が蔓延る中、自分だけはいつも正しかった」という論調の見苦しさが、物書きとしての自分にも当てはまらないかという懸念に取りつかれたからです。更に、シリコンバレーのテックブローズの政治進出や桁違いの経済力・影響力や、AIバブル崩壊から人類滅亡論などのテック関連ニュースが不穏に響く中、専門外の自分が意見することは無責任ではないかという重圧感もありました。
本という媒体の意義と危険
なぜこの著者はメディアや政府機関などにもっと早く手短かに訴えなかったのか。本という媒体は正しかったのか。
すでにMeta内部告発者は2018年から、そしてデータ管理などに関して一般的なテクノロジーの内部告発者は2013年のスノーデン以降、何人もがメディアや政府機関に訴え、抗議辞職をし、退職後にNPOを立ち上げたりドキュメンタリー映画を製作したり登場したりしています。それなのに一般的なテクノロジーの革新を公共安全に優先させるというシリコンバレーの傾向にはますます拍車がかかっています。だから本という媒体を著者は選んだのでしょうか。この本は、皆がテクノロジーやSNSの弊害に気が付き始めたタイミングと、Metaが著者を黙らせようと様々な手段を使ったことが逆に広報の効果を上げ、メディアの注目とメタ反対運動の熱烈な応援を受けて売り上げを伸ばしています。
しかし同時に、本を出版するということは出版に関わる全ての人の努力の代価を本の売り上げに賭けるということです。わたし自身が自分の英語の回顧録の米国での出版を見越して知ったことですが、本を出版することの利潤は想像以上に小さいです。そして特にアメリカでは、著者が何年もかけて執筆した本をまず代表するエージェントが出版社との交渉の前により売れるように色々助言をし、更に出版社の中で編集者や広報担当がまた色々本に手を加えます。ここに危険性がないとは言えない。著者のメタやテック産業に対する糾弾は要するに、データプライバシー、誤情報・偽情報、過激意見の助長、心理悪作用など全ての悪作用やその危険性よりも、会社やテックの発展を優先させている、ということです。しかし、著者自身も自己正当化と本の売り上げを、客観的な事実共有よりも優先させてはいないか…?
世に物を申すのに回顧録というジャンルの適切性
この本で著者はかつての同僚や、毎日顔を合わせていた上司のことを容赦なくこきおろし、笑いものにし、その人間性・倫理性・合法性を疑問視し、様々な逸話を披露します。これは我慢に我慢を重ねた鬱憤の爆発なのかもしれない。この本によると、ザッカーバーグは雇用人を統治国家の牢屋に送り込むことすらSNS投稿のネタにしたり、中国への市場進出のためにはユーザーのデータプライバシーを妥協する事に躊躇しなかったり、ミャンマーのロヒンギャ大虐殺へのFacebookの影響を手をこまねいて介入に躊躇したりと、私も読んでいて非常に憤りを覚える選択をくりかえします。ザッカーバーグを取り囲むメタ重役もザッカーバーグの顔色を窺ったり、自分の収入や名声や出世を優先させたり、裏と表の顔を使いこなして救いようがありません。回顧録という媒体を選んだ著者は、これらの逸話を自分が主人公の物語として提供します。過去の出来事には、関係者全ての視点と解釈があるけれど、一度その中の一人の主観から書かれてしまうと、その記録には過去に対する一般理解への凝固作用があります。それでよいのか?
AI狂騒はデータ狂信の結果ーデータゾンビのおぞましさ
私は今、記録と記憶の反比例の力関係ということについて考察をし、書いています。人類史に於いて、言葉ができてから文字ができるまでに何万年という時間があります。そして識字率が高まり、書物が出回り、印刷機が発明され、啓蒙主義で教育が一般化し、IT革命、SNS、そして今AIの時代。この流れは全て、実習から学習へ、実体験から理論へ、口伝から書承へ、そして五感から情報過視化への移行といえると思います。AIというのは、今まで我々が溜めて来たデータの産物です。今まで人間が管理したり人間が解釈してきたデータが、人間抜きにして一人歩きを始めたのがAIだとしたら、AIはデータゾンビです。怖いのは当たり前です。
病的な現世、例えば環境問題や経済格差などを論じるとき、産業革命から間違えたとするのが主流の語り口です。しかし、私は実は転換期は識字率がある程度一般化し、印刷機が安値の書物の市場進出を可能にした中世ではないかと思っています。書ける人がいる、ということは書けない人が出てくる、ということです。「書ける」というのは読み書きの能力だけではない―書いたものをより発表しやすい人が「書ける人」です。そして書ける人は書きながら、そして書いたものの評価・栄光に溺れながら、誇大妄想してしまう。自分は偉い。自分の考えは世代を超えて記録され、読まれ続け、人類史を変えるべきである。
…といつまでも書いてる私は、それでは一体何をしているのでしょうか…?
( ̄∇ ̄;)ハッハッハ!皮肉ですね。
