弦楽四重奏、起源と発展


バロックでは今日私たちが考えているような四重奏と言うのは在り得なかった。何故かと言うと、バロック音楽の一番基本的な考え方にメロディーとベースと言う上下で音楽を全て作る、と言うのが在るからです。だから、ベース・ラインだけを書いて、後は和音の番号指示だけして(ハーモ二ーは適当に入れてください)って言う感じになるんですね。しかし、それでは四重奏は成り立ちません。
と言う訳で、四重奏が始まるのは古典派に入ってからになるのですが、勿論全くの親無し孤児では在りません。先祖にはCorelliの物が有名なコンチェルト・グロッソ。小さなアンサンブル対オーケストラと言うこの構図のジャンルの小さい方のアンサンブル(コンチェルティーノと言う可愛い名前です)が、この時代通常だったヴァイオリン二本にチェロを加えたアンサンブルにもう一つヴィオラを加えて、現在の弦楽四重の形にする、と言うものもあったようです。それから弦楽オーケストラ。
四重奏の始まりはウィーンと断言して良いでしょう。「弦楽四重の父」と呼ばれているのはハイドン(1732-1809)です。彼の作品1と2はいずれも四重奏ですが、これらは宮廷のBGMとして使われるタイプの、いわゆるDivertimento。5楽章(速 - ミニュエット・トリオ - 遅 - ミニュエット・トリオ - 速)と言う構造で、このミニュエットとトリオが二回も出てくると言う事実だけとってもいかにも宮廷の軽いエンターテイメントと言う感じが分かりますよね。しかしその後、ハイドンはどんどん実験的にこのジャンルを大きくしていきます。まず作品9、17、20(これ等の作品番号にはそれぞれ6曲の弦楽四重が入っています)に置いて、彼は4楽章(速―ミニュエット・トリオー遅-速)の方式を確立します。この時はまだ、ミニュエットとトリオはゆっくりな楽章の前にあります。この頃はロココ形式や、Galantと言われる、雅やかな宮廷様式への反抗としてSturm und Drang(疾風怒涛)と言う文学と音楽での両方で起こったドラマチックに感情表現をして、建前を取り繕うことを良しとしない、と言う風潮がありました。ハイドンのこの頃の四重奏もそれに乗っ取って、ドラマチックで真剣なものが多いです。フィナーレに対位法が用いられているのも特徴です。例えば西洋音楽の父、J.S. Bachの作品は長調の曲と短調の曲と約半々ですが、その息子たち(W.F Bach,J.C. Bach, C.P.E. Bach)やモーツァルト位までのギャラントの時代の作品と言うのは長調が90パーセントを締めます。(例えば19あるモーツァルトのピアノソナタの中、短調なのは2曲だけです。)でも、このSturm und Drangの時代のハイドンの四重奏は実に半分の曲が短調なんですよ。作品33の6つの四重奏をハイドンは「新しくて特別」な作品としています。Sturm und Drangは立ち去り、またおなじみのひょうきんで楽しいハイドンの作品がここから見られます。ここで彼は現代おなじみの4楽章形式(速―遅ースケルツォー速)を確立。さらに、4本の楽器がそれぞれテーマを同等に扱う、と言うのがこの頃の特徴。この後の作品で彼は更なるソナタ形式の可能性の模索、対位法のとり入れ、民族音楽の引用などの工夫を重ねて生きます。ドイツ国歌のテーマとなった作品76の四重奏は「皇帝」と言うニックネームで親しまれています。
ベートーヴェンに余り感謝はされなかった物の、ハイドンはベートーヴェンをウィーンに連れて来るきっかけを与え、さらにウィーンに来たベートーヴェンを教授した人物でもありました。そのベートーヴェンは「恩師」の得意とするジャンルにやっと手をつけたのは交響曲第一番(ハイドンは「交響曲の父」としても知られています)が出た同年、1800年です。この時出版された作品18は四重奏はとても効率の良いMotific developmentにハイドンの影が見えます。しかし中期のベートーヴェンの四重奏となると、話は違ってきます。劇的要素、技巧的困難さ、音域の拡大、そして長さに置いて、これはもう宮廷でアマチュア貴族や、お雇いヴァイオリン弾きが初見で弾ける物では在りません。これは、交響曲と同じように、プロの四重奏が音楽会場で聴衆のために演奏する物です。そして後期の四重奏はこれはもう型破りの一言。例えば作品131は7楽章から成りますが、楽章と楽章の間に休みは無く、続けて演奏されるように書かれています。演奏時間は約50分。しかも、一楽章はフーガで始まり、楽章の順番も常識とは全く違います。作品133はGrosse Fugueと呼ばれています。一楽章から成る、16分ほどの難解なフーガですが、これをベートーヴェンはもともと作品130のフィナーレにするつもりでした。出版社の要請により(「ベートーヴェンさん、コレでは絶対に売れません!」…)作品130には別のフィナーレが用意され、作品133が一楽章ものと成ったわけです。
ベートーヴェンの後期の四重奏は、これも当時では革新的なことだったのですが、総譜が出版されました。それまでは四重奏はパート譜だけしか出版されなかったのですが、ベートーヴェンの後期の作品になって初めてこのジャンル、そして音楽全体が「弾く物」、そして「聴くもの」から、「読んで理解するもの」に成るのです。この後期の四重奏が出版された時生きていたのは、シューベルト、メンデルスゾーンとシューマンです。シューベルトは31年の短い生涯の最後の5年に沢山の名曲を開花させていますが、死ぬ一年前に書かれた四重奏は彼特有の三度関係の転調など、面白い作品になっています。彼は死ぬ5日前に特別のリクエストでベートーヴェンの作品131を演奏してもらい「この後に、誰が何を書けると言うのだ」と言ったと言います。メンデルスゾーンはその感銘が明らかな、楽章の全てが続けて演奏され、それぞれの楽章が同じテーマを持って展開する四重奏を書きました。シューマンはむしろモーツァルト、ハイドン、そしてJ. S. Bachに影響を受けて四重奏を3つ書いています。
それ以降の特筆は、ドヴォルジャーク、スメタナ、ヤナチェーク、バルトーク、チャイコフスキーと言った東欧の作曲家たちでしょうか。彼等の多く(特にヤナチェークとバルトーク)民族音楽を自分の作品に忠実にとり入れることに使命を感じており、それがそれまでのクラシックとは全く違った様相の曲たちを生み出しました。バルトークの四重奏の中にはバルトークピッツィカートと言う、指板に弦がぶつかるくらい強く弦を弾くピツィカートなど、特別なテクニックが沢山要されます。新ウィーン楽派(12音法を編み出したショーンベルグと、その弟子、ウェーバーンとベルグ)の四重奏は重要です。ショーンベルグの四重奏2番の最終楽章は多分始めて無調性を試みた楽章です。(この四重奏が当時浮気中だった妻に捧げられているのは面白い史実です。妻はいずれ戻ってくるのですが、捨てられた愛人は自殺をします。愛人はショーベルグの絵画の先生でした)ウェーバーンの四重奏のための5楽章、ベルグのリリック組曲、など。ショスタコーヴィッチは15の四重奏を残しています。ソヴィエト連邦の抑圧の中作曲していたショスタコーヴィッチは1948年、ついに共産党のメンバーにならざる終えなくなります。連邦のプロパガンダ楽曲を作曲することを強制されながら、彼は「引き出しのため」に演奏予定の立たない曲を密かに、時には涙ながらに、作曲をします。その多くには自分のイニシャルを音符にして入れ込んであります。政治的表明、と言う意味では最後にもう一つだけ大事な四重奏の話を。George Crumbのブラック・エンジェルと言う曲があります。これはアンプで音を拡大した四重奏のための曲ですが、イギリスのルネッサンス作曲家John Dawland「Flow, my tears」や、シューベルトの「死と乙女」を引用してたくみに当時のベトナム戦争反対の姿勢を表明した、今では歴史的に有名な四重奏です。