例えば宇宙人に我々の生活や社会を紹介するとしましょう。当たり前に思っていたことの不思議が浮き彫りになります。なぜ一日三食なのか。早寝早起きは全員するべきか。松茸は本当に値段相応に美味しいのか。「Seeing the strange in the familiar (常識に奇妙を見出す)」のは社会学的・人類学的な観点です。
学者は観察と検証に時間をかけた研究結果を発表しますが、常識の奇妙を直感的に指摘する達人がいます。子供と道化師です。同調圧力をものともせず「王様は裸だ!」と笑うのは子供です。チャップリンは「モダン・タイムス」や「独裁者」で社会の機械化や独裁政治などを大笑いの対象にしました。
宗教家や芸術家も型破りな言動の自由がありますが、それは世俗の部外者となることを選んだ者としてです。自分の属する宗派や伝統を根本的に疑問視することは村八分覚悟でしなければいけません。そんな中私はクラシック音楽の常識に「なぜ?」を問い続ける異端者です。そもそもなぜ日本生まれの私が西洋音楽を専門とし、アメリカで職業ピアニストをやっていけているのでしょうか。なぜ19世紀後半まで鎖国をしていた日本が、1979年にはアメリカを抜いて世界一のピアノ生産国となったのでしょうか。なぜ西洋クラシック演奏会を開催する事のみを目的としたコンサートホールという空間が世界中に存在するのでしょうか。
そういう疑問の延長線上で私が博士課程の研究題目としたのは『暗譜の起源』です。終演後「どうやったら(HOW)そんなに多くの曲をおぼえられるのですか?」とよく聞かれますが、「どうして(WHY)暗譜で弾くのですか?」と聞かれたことはまだ一度もありません。それって考えれば考えるほど不思議じゃありませんか?どうして西洋クラシック音楽の常識は誰もが疑問を持てないほどの権威を持ってしまったのでしょうか。

今私はこの研究を新しい形で発表する機会を提示され、ちょっと迷っているのです…学者として語るのか、道化として語るのか。
この記事は隔週で日刊サンに掲載中のコラム「ピアノの道」♯183(8月16日発表)を基にしています。
