朝6時半:熟睡の後の起床は寝床での思いっきりのストレッチが気持ち良い。起きた途端に(ああ、本番の日)と思うのは演奏会の日の常だが、今日はいつもの高揚感に反比例した空虚で重い気持ち。でも、カーテンを開け放ったらこんな景色がベランダの外に!さっさと着替えて、朝食ビュッフェに行ってラッテだけ飲む。海を見ながらゆっくり美味しいラッテを飲むことだけに集中する数分。
8時:スパで泳ぐ。貸し切り状態。何と言うのだろう。小さなプールなのだけれど、すごい勢いで水流が向かってきて、それに対抗して泳ぐといつまでも泳いでいられる、運動用の特殊プール。腕も足も指の先まで思いっきり伸ばして、力を込めて泳ぐ。息がぜーぜー切れる。
9時:10時からのリハーサルに向けてウォームアップ。バッハをずっと弾く。バッハは確かに私の精神安定剤だ。
10時:バンドリーダーは裏方さんたちにも横暴。そして私は全く知らされていなかったのだが、演奏中に物凄い風が「ブオオオオ~!」と吹いて来たり、かすかに甘い匂いのする霧がモクモク立ち込めたり、舞台背後の壁になんか星が沢山蠢いたり、ハートが沢山飛び回ったり、やたらとハイテク演出が多い。耳にイヤフォンを付けて、メトロノームのクリックを聞きながら弾く曲が演目の半分。なぜこれが必要かと言うと、不在のドラムセットとか、不穏な豪風や、不在の他の楽器などの音響が入った録音に演奏を合わせなければいけないから。(いっそのこと全部録音にして流したら?)と思ってしまう。バンドリーダーの態度は相変わらず。自分に優しく、他人に厳しい。というか一つの欠点をその人の人格全体や存在そのものの汚点の象徴の様に常に言う。
12時半:むしゃくしゃする。自分を持て余して、うろうろする。船の係の人に「これからでも島のツアーに参加できるか」と聞くと、20分後に出発のツアーのチケットをくれる。空腹感は無いけれど、今日は朝食ぬいたし、今夜は本番。ビュッフェで急いで見繕って、それを部屋に持ち込み、アンティグア島のツアーの準備をしながらむしゃむしゃ海賊の様に食べる。ダックコンフィ、インドのダルとジャズミン・ライス、グリッツ(トウモロコシの粉ベースのおかゆ)などちょびっとずつ。
13時半:せっかく気分転換しようと思ったのに、ツアーに行ったらトリオの二人がキャンセル待ちで手持無沙汰で待っている。気持ちを切り替えて笑顔で接し、チケットが取れなかったという二人の為に一緒に参加できるように頼んであげる。他の乗客も一緒だし、何てことない。アンティグア島は1981年にイギリスの統治下から独立したそうです。1860年代に奴隷解放。ビーチが美しいこの島は、でも干ばつで農産物には恵まれず、他に輸出できる資源もなく、観光が主な産業です。オープラやエリック・クラップトンが別荘を持っていたり、セレブが中毒からのリハビリに集中するためのセンターなどがあるそうです。でもコロナ禍で観光も大変。ツアーガイドのクリスティンは「何十年もツアーガイドをやっているけれど、これが私のコロナが明けて初めてのツアーです。ようこそアンティグアへ!来てくれて嬉しいです。)と挨拶してくれました。いかにもベテランのジョークもこなれた肝っ玉かあちゃんのガイドだけれど、一瞬ヒヤッとした事がありました。同じツアーの白人男性がクリスティンに「ホレーシオ・ネルソン(アンティグアを統治した英国人)はアンティグアの歴史上英雄か、悪者か」と質問した時です。それまで流暢に離し続けていたクリスティンが5秒ほど黙って床を見つめました。どう答えようか迷っていたのか、気持ちを落ち着けていたのか、私にははかり知れません。5秒の後顔を上げ「英雄ではない。ノー、彼は英雄ではない。我々から略奪をした。No, he is not a hero.」と、文章毎により断固として言いました。質問をした男性は「勿論、そうですよね。」と快諾しました。彼が自分の質問の無神経さについて理解していたか、私には分かりません。
私は原爆とか空襲とか東京裁判とか、日系アメリカ人の強制収容とか、そういう事をアメリカ人に話題にされると、どうしても冷静でいられません。声が震えて、感情を抑え込めない。自分の見解を述べながら気持ちが高ぶってしまう。クリスティンは偉かったと思いました。
17時:3時間の予定だったツアーが帰りの交通渋滞で少し押しました。バンドリーダーがイライラしているのがバスの最後部からジンジン伝わって来るようでした。まあ、私も21時からの本番が段々気になって来てはいたけれど。帰ってしばらく昼寝。眠ったかどうか自分で分からないけれど、意外に暑かった(32度くらい)し、日陰を高齢者に譲ったりして日に当たって居る時間が長かったし、兎に角本番に向けてコンディション。
18時:やはりまだお腹は空かないけれど、本番前の腹ごしらえ。「ビュッフェで夕食に寿司が出る」という噂がずっと気になっていたので、いざ!お寿司だけ味見ついでに軽く、と思って行ったら他にも色々余りにもおいしそうな物があってついつい手が伸びてしまいました。醤油小皿の右となりに見えるのはキスの寿司。珍しい!と思って取りましたが、ググったら虫が出る可能性が...フィリピン人のリコール、大丈夫かな?
20時:最終テックチェック。バンドリーダーはテックの人にやはり横暴。テックの人もぴきぴきし始めていました。楽屋では私はできるだけ他の2人と一緒にいる時間を少なく、自分の精神衛生と本番に向けての集中を最優先しました。
21時15分:本番は、自己ベスト。プロ精神で頑張りました。文句の付け所は少ないと思う。でももうトリオの顔は観たくもない。次の本番は月曜日。明日は徹底的にトリオを避けます。
お疲れ様です。
やさぐれ感が伝わってきます。
繊細な心根を佳しとする人にとっては耐えられません。
野卑な人は”井の中の蛙大海を知らず”
高貴な人は”されど空の深さ(青さ)を知る”
いざ、本番へ。
小川久男