16年目になる私の日本での独奏会シリーズ。
今年のテーマは「『クラシック』って何!?」
その心は…
『クラシック』と言う言葉は文字通り訳すと古典。
ではクラシック音楽は古くて歴史的影響力がある音楽か、と思いきや、
古代メソポタミアの音楽や、古代ローマ、ギリシャの音楽をクラシック音楽とは言わない。
逆に、今日初演がある出来たてホヤホヤの曲でも
クラシック音楽の勉強をした作曲家の曲ならば「クラシック音楽」となる。
それでは『クラシック音楽』とは、なんなのか?
西洋音楽の歴史に於いて、ある時点までは
曲は新しければ新しいほど良い、と考えられていました。
音楽は常に進化している。
古いものに歴史的興味が多少あっても、新しい物の方が良いに決まっている!
例えばポップスとかなら、今でもこういう考え方がありますよね。
懐メロはおじいちゃん・おばあちゃんが聴くもので、
最新流行で「ナウい」物が一番良い。
この頃の演奏会ではお客さんは凄いと思ったら曲の途中でも拍車喝采。
楽章の途中の拍手は当たり前だし、大体全楽章演奏すること自体がまれ。
そして好きな楽章や曲の終わりには立ち上がって「アンコール」の要求。
ところが、これが変わるのが19世紀。
死んだ作曲家のリヴァイヴァルが始まります。
1782年には演目に組まれる死んだ演奏家は全体の演目の11パーセント。
それが1830年には50パーセントになり、1862年には70パーセント。
最近のクラシック演奏会では何パーセントですか?
この移行の時期に、Canonと呼ばれる作曲家のリストが設立します。
Canonとは何か?今ググったら、
「教会法、教会法令集、(倫理・芸術上の)規範、規準、(聖書外典 に対して)正典、真作品、正典表、(ミサ)典文、カノン、聖人名列」です。
バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ハイドン、シューベルト、ベートーヴェン。
なぜこんなにドイツ系が多いんだ、おかしいんじゃないか?
これはアーリア人優勢主義のたくらみでは?
…と言う趣旨で書かれたのが石井宏の『反音楽史』。
そういう一面も在るかも知れませんが、
このCanonの設立に躍起になったのがドイツ人だった、
そしてそれはアーリア人優勢主義と言うよりも、
ただ単にくそ真面目なドイツ文化は歴史を振り返って
やっぱりくそ真面目なドイツ物が一番好きだった、とそれだけなような気もします。
そして『クラシック』は、私に言わせると、くそ真面目。
くそ真面目とは何か。くそ真面目=自己陶酔。
自己陶酔とはいけないのか、と言わると、いけなくはない。
自己陶酔があるから、一生懸命・一所懸命になれる。発展性の可能性が生まれる。
唯一、自己陶酔の危険性は排他的になること。
この排他的が度を超すと、発展性まで殺してしまいかねなくなる。
スコット・ジョップリンを練習しながら思うのは、
彼の人生はおそらくベートーヴェンの物よりずっと過酷だっただろう、と言う事。
ベートーヴェンだって難聴、数々の失恋、甥の自殺未遂など
数々の難関を潜り抜けた、辛い人生だったけれど、
それらを「悲劇」と認識し、自己陶酔する特権が白人の男性として許されていた。
ベートーヴェンの悲劇に自分の悲観を投影し、共感してくれる人々に囲まれていた。
ジョップリンの時代は黒人のリンチの数がピークに達した時代。
リンチされた黒人の死体の前で群衆が笑って記念写真を撮る時代。
ジョップリンやジョップリンの様にラグタイムを作曲・演奏したピアニストたちに
自己陶酔の贅沢は許されていない。
兎に角気に入られなければ、好かれなければ、楽しませなければ。
極論、殺されてしまうかも知れない。
『クラシック音楽』と言うのはくそ真面目を楽しめる特権。
贅沢な音楽なのだ、と思い始めている。
そしてクラシックを謳歌出来る私の人生、時代は素晴らしいと思うけれど、
19世紀の演目をそっくりそのまま再現したような現代のクラシック事情に
ちょっぴり疑問も抱いている。
そんな私の思いの総体性が、今年のプログラム「『クラシック』って何!?」。