美笑日記8.26:静謐の音

このブログは日刊サンに掲載中の隔週コラム「ピアノの道」の9月3日発表の記事を基に書いています。

書くお仕事や講演の仕事が増えてきました。専門的にピアノ演奏を勉強して来た私が、言葉で発信して価値がある事とは何なのか…少し悩んでいます。はっきり言って、講演の方が演奏よりも簡単です。演奏のための準備・練習は莫大な時間と気力を要します。でも、それでも、演奏は私にとって考え・感じる手段であり、核心を極める道です。その私がピアノの道を通じて掴んだことを言葉で発表する時、何を本当に伝えられるのか。

最近、一つ思いつきました。私が確信を持ってお伝え出来る事。それは計量できる事実と、我々の感覚にはずれがある、という事です。そして近代では人は客観的に計量できる事実を、自分の感覚より「本当」とてして理解する。その為、何が「真実」なのか、非常に懐疑的になっている、という事です。

デシベル(dB)とは別に、圧倒的に大きく感じる音、というのがあります。メトロノームの一秒に何拍とは関係なく、そのパッセージが一番速く聴こえるテンポというのは、実はコントロールが効く抑え気味のテンポだったりします。

ザ・サウンド・オブ・サイレンスという歌がありますよね。静寂の音。無音よりも静謐な音。私は、音楽家としてそういう心静まる音を醸し出す事ができると自負しています。

5分ほど完全な無音に限りなく近づけた部屋に、一人で座ったことがあります。

あるピアノ工場の一角にリサーチのために作られた無音室のドアは、私の身体の横幅よりも分厚く、非常に重い。内側の壁は全て吸音する材質で覆われています。見上げても天上がどこだか分からないほど高い。床はかろうじて歩くための梁が渡してあるだけ。その梁の下も底が見えないほど深い空洞になっています。音波を伝える材質をゼロに限りなく近くした部屋です。

「少しこの部屋に一人で居ても良いですか」

耳を澄まそうと頑張りましたが、自分の耳の中の音がやけに増長され、心穏やかな状態には至れませんでした。

五感の中で一番命の危険を察知しやすいのが聴覚です。例えば視覚は目の前にあるもの、それも遮るものが無い物しか見えませんし、我々は目をつむります。それに対して聴覚は360度どこからの音も聞き取ります。音は遮る大抵の物質をある程度貫通しますし、寝ていても聴覚は生きている。脳内では視覚から得た情報は論理や集中で時間をかけて吟味されるのに対して、聴いた音は素早く感情や生存本能で処理されます。だから我々は間近な爆発音に飛び上がったり走り出したり、考えるよりも先に体が動くんです。

警報。悲鳴。雷…我々に命の危険を知らせる音があるのに対して、「全て正常」と安心させてくれる音もあります。鳥の鳴き声。遠くの談笑。生活音。子守歌。そういう音も全て排除された無音室では、心穏やかではいられないんですね。

我々を安心させてくれる最たる音が、音楽ではないか…最近そう思うようになりました。外界で何が起こっていても、聴いている曲が悲嘆でも、激しく感情的でも、音楽を愛でる時空に於いて我々は皆一緒で、安全。そういう安心感を届けられる音楽家を目指しています。

この記事の英訳はこちらでお読み頂けます。https://musicalmakiko.com/en/my-musical-mission/3002 

1 thought on “美笑日記8.26:静謐の音”

  1. お疲れ様です。

    音楽のある生活は、いいですね。
    今この時のこころ模様を知ることができるからです。
    「安心感を届けられる音楽家」が視聴者の基準となります。

    小川久男

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