5月に日本各地で行う演奏・講演…今年の演奏テーマは「歴史を聴く」。その心をまずご説明し、その後でそれぞれの作曲家と曲がどう時代の移り変わりを反映しているか考察し、演目解説とします。

理解よりも、もっと感知を!

『歴史』と言われて連想するのは年号や重要人物名、人口数や金額と言った数値、『環境問題』と言われたら温暖化データや、汚染指数…と言う方は多いのではないでしょうか。でも理解に使う脳の新しい部位と、感知に使うより古い部位は、機能も役割も違います。『歴史に学べていない』とか『科学的見地が解決や運動に繋がらない』などと嘆かれますが、データや固有名詞は人の心を動かしません。論理的な理解と感覚をフル稼働した感知を兼ね合わせて初めて未来形成に本当に役立つ叡智に至る、と私は思っています。

人類は『ホモサピエンス(賢い人)』と言われますが、我々を人間たらしめるのは知能なのでしょうか。だとしたらなぜ脳はこんなに大きな部位を感じ取り動かすために割り当てているのでしょう。下は脳神経外科医ワイルダー・ペンフィールドが作成した脳のどの部分で体のどこを動かし感じ取っているかを閉めるホモリンクスと呼ばれる地図です。

頭・心・体のバランスが不可欠の楽器演奏

AIに脅威を感じるのは、どんどん頭でっかちになっていく我々の社会傾向とその弊害をすでにみんな感じ取り、その傾向の加速を危惧するからではないでしょうか。

勿論、ピアノ演奏にも知性は多いに活用します。作曲家や曲の作風の歴史や社会背景を受けた必然性を文献で調べ、そして曲の中のそれぞれの音や和声の必然性を音楽学理で理解します。

更に楽器演奏には身体能力を総動員します。勿論スポーツに比べたら運動量は少ないのですが、ピアノを弾くのは全身総動員です。足でバランスを取り、重心を下げて丹田に気合を入れて上半身を安定し、背筋や腹筋を中心にできるだけ大きな筋肉を意識して演奏する事で腕・手首・指ができるだけ楽に弾けるように練習します。私は練習は主にバランスボールに座ってしている、と言えばイメージがしやすくなるでしょうか。

最後に心。作曲家はどういう心情でこの曲を書いていたのか。時代を超えて人々は何に共感してこの曲を弾きついできているのか。役作りをするように作曲家の伝記や逸話を読み込んで、想像の羽を広げます。練習の手を止めて涙する事もあるんです。役者さんが役作りをするのに似ていると言えるのかも知れません。

音楽鑑賞は生音で一緒に

現代人の音楽鑑賞の大半はデジタル音のながら聞きではないでしょうか。音楽は確かに心身の健康向上に有効ですが、食事と同じ。加工食品のながら食べによる過食が不健康なように、デジタル音のながら聞きでは効果はあまり期待できません。むしろながら聞きは意識や集中を妨げたり、長時間や大音量の音楽は聴覚に弊害をもたらしたり、音への感覚が鈍感になったりと、副作用さえあるんです。

蓄音機の発明までは音の発信者と受信者は時空を共にすることが必然でした。でもその後のオーディオ機器の発展により、現在では音楽はスマホでイヤフォンやヘッドフォンを通して外界を遮断する孤立法となっています。

しかし元来音楽というのは、人間の共感力を高め、協力や共同生活の潤滑油だったのです。皆さんも音楽会場で言われぬ一体感に感動したことがあると思います。音楽の共体験は人々の心拍を拍子に、呼吸をフレージングにシンクさせます。社会的動物である我々はそうやって自分よりも大きな社会や伝統を体感する事で自信と安心と協調性を高めるのではないでしょうか。記録に残る古来からの全ての文明に於いて、何等かの音楽文化があることが知られています。儀式や祭りやコミュニティーの営みや節目を音楽で彩ることで、人々は代々一体感と安心感を覚えてきたのだと思います。

そして米独立宣言250周年記念の今年

不穏要素の多い今年迎えた米独立宣言250周年記念。我々を今日に至らしめている時代背景に耳を澄ませて一緒に感じとり、そして未来への指針とできれば…という願いを込めて準備したプログラムです。皆さんと時空と音波を共有することをとても楽しみにしています。

「聴く歴史:AIの時代のピアノ演奏」演目解説
  • ヨハン・セバスティアン・バッハ (1685-1750)
    • パルティータ第一番変ロ長調(1726)=300年前!
      • プレリュード (Praeludium)
      • アルマンド (Allemande)
      • クーラント (Corrente)
      • サラバンド (Sarabande)
      • メヌエット I & II (Menuett I & II)
      • ジーグ (Gigue)

バッハが生まれた1685年、ドイツはレオポルト1世が君臨する神聖ローマ帝国の統治下ーそしてフランスでは「太陽王」ルイ14世絶対的権力を誇っていました。宮廷と教会が思想・経済・政治を司る中、音楽は宗教音楽と宮廷音楽が主流で、音楽家は職人と同じ身分扱いでした。

今でこそ「西洋音楽の父」と神聖化されているバッハですが、実際には生活や就職活動や昇給交渉に苦労しています。ワイマール公の宮廷使いで思うように昇進できず解任を願い出たバッハをワイマール公は投獄してしまいますー1717年、バッハ当時32歳、4人の子供の父でした。幸い約一か月間の禁固処分を経た後にお叱りと共に解任され、めでたくケーテンの宮廷楽長に就職できるのですが、職の自由も雇用人の権利も風前の灯の時代だったのです。

そのバッハがこの前奏曲とバロック風宮廷音楽全6曲からなる組曲を自費出版したのは1726年…今からちょうど300年前です。ライプツィヒ市音楽監督として市内の4つの教会に教会音楽を作曲し、合唱やオーケストラの指導と指揮をし、オルガン演奏をし…この激務をこなしながらバッハはなぜこのパルティータを自己出版したのか。バッハの生活と心情に思いを馳せながらお聴きください。

  • フランツ・ヨーゼフ・ハイドン (1732-1809)
    • 鍵盤ソナタ第47番ロ短調 (1776)よりー米独立宣言=250年前
      • 2楽章:メヌエットートリオ

ハイドンの誕生日はアメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンの6週間後です。1776年当時アメリカ独立を賭けた非常な苦戦を強いられていたワシントンに比べ、ハイドンはエステルハーザ侯爵の宮廷学長としてオペラの作曲・指揮・制作、交響曲の作曲・指揮、オーケストラ団員の統治と楽器の管理などをこなしながらも「パパ・ハイドン」と慕われ、安定した生活を送っていました。1776年に作曲した6曲の鍵盤ソナタが貴族の間でハイドンの人気向上に一役買っています。この時点では雇用契約に従い作曲の著作権を全て侯爵に握られていたハイドンも、人気向上と社会風潮の変化を受けて1779年の契約交渉で著作権を取り返すことに成功します。そこから自分の作曲を出版社に売り始めたハイドンは「交響曲の父」「弦楽四重奏の父」と称えられ、晩年には国際的な名声を欲しいままにしました。

今回のプログラムでは構成上2楽章のメヌエットートリオだけをお聴きいただきますが、エレガントな宮廷を彷彿とさせるロ長調メヌエットと対照的なドラマチックなロ短調のトリオは後にロマン派主義へと発展するシュトゥルム・ウント・ドラングの予兆と言えます。日本語では「疾風怒濤」と和訳されるシュトゥルム・ウント・ドラングは直訳すると「嵐と大波」ー古典主義や啓蒙主義に反発し「理性に対する感情の優越」を唱えた文学・音楽の様式です。この火付け役となったのはアメリカ独立戦争を物語の一部とした同名の演劇―1777年の初演です。

  • フランツ・シューベルト(1797⁻1828)
    • ピアノソナタ第18番ト長調(1826)よりー200年前。
      • 3楽章:メヌエット―トリオ

シューベルトはハイドンと同じく、ウィーン少年合唱団の前身だった全寮制合唱団にボーイソプラノとして受け入れられたので音楽教育を受けられています。31歳という若さで亡くなりながら600の歌曲を始め、50の室内楽や多数のピアノ曲など全部で1500以上の作曲を残しました。宮廷にも教会にも一度も勤めずとも作曲に始終する人生を送れたのには、人々の価値観の変化・教育の浸透・個人主義などの時代背景が少なからずあります。

ハイドンのソナタが「鍵盤ソナタ」なのに対してシューベルトのソナタが「ピアノソナタ」なのにご注目ください。1776年にはまだ鍵盤楽器と言えば主にチェンバロ(別名ハープシコード)でしたが、1700年にプロトタイプが作られたピアノと言う楽器は産業革命と共に進化を遂げ、1826年には鍵盤楽器と言えばピアノとなっています。どんな打鍵でも音色も音量も無変化だったハープシコードに比べ、ピアノは音の強弱を可能にしただけではなく、音域や奏法技術の可能性も大きく広げました。それに従って作曲家の作風も強弱や速度や感情表現の幅を多方向に開拓していき、一曲の長さもどんどん長くなっていきます。1776年のハイドンのソナタは全三楽章演奏しても15分弱ですが、1826年のシューベルトは全四楽章演奏すると40分ほどかかります。

  • ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (1770-1827)
    • ピアノソナタ第14番嬰ハ短調『幻想曲風ソナタ』通称『月光のソナタ』(1801)—225年前。
      • アダージョ・ソステヌート
      • アレグレット
      • プレスト・アジタート

ナポレオンより一歳年下のベートーヴェンが今から225年前に作曲したのがこの『月光』のソナタです。都市化が進む中、人々は「他人に取って代われない、『自分』とは何か」と問います。その中で音楽は自己表現を極める一つの手段としてもてはやされるようになります。更に、啓蒙主義の浸透により「人間みな平等」と教会や王政の権力に対抗し始めた大衆に対し検閲や圧政が厳しくなった当時、タイトルも歌詞もない「ソナタ」や「交響曲」などと言った楽曲、そして特に激情的なベートーヴェンの作風は検閲の目を潜り抜け人々の心情のはけ口となって人気を得たという音楽史の見解もあります。

ベートーヴェンは「器楽曲は音楽の美しさ以外何も表現していない」という硬派な「絶対音楽」の筆頭に挙がる作曲家です。このソナタ14番は「月光のソナタ」という通称で有名ですが、「月光」もベートーヴェン自身のタイトルではありません。ベートーヴェンの死後、詩人のルートヴィヒ・レルシュタープがこのソナタの第一楽章を「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と評したことがきっかけです。225年間もの間この曲はどうして人を惹きつけてやまないのでしょうか。「月光」のイメージが無くてもこの曲はここまでこよなく愛されたでしょうか。1816年にメトロノームが発明される前のこの曲を、当時のピアニストはどんなテンポ感で弾いたのでしょうか。ベートーヴェンは何に触発されてこの曲を書いたのでしょうか…そしてその後代々どんな人生を送りながら人々はこの曲を愛でたのでしょうか…想いを馳せながらお聴きください。

ーーー休憩(15分)ーーー

  • フレデリック・ショパン(1810‐1849)
    • 幻想即興曲嬰ハ短調(作曲年1831)=195年前
    • 練習曲嬰ハ短調作品10-12(作曲年1831)『革命』=195年前

個人主義的な考え方ですと、作曲家は天才でその作風は他の誰にも思いつき得ない奇想天外で独創性溢れたもの…と言うことになります。でも実際は作曲家もその時代背景や人生状況、そして当時の音楽や先輩の作曲の上に自分の作品を重ねていくもの…それは本人たちが一番自覚していたのでしょうか。ショパンのピアノ作品の中でも大抵のファンのトップ10に入る幻想即興曲はベートーヴェンの『月光のソナタ』に触発されているということは、特にこうして並べてお聞きいただくと如実になるのではないでしょうか。ベートーヴェンの激情をそのまま引き継ぎながら、中間部ではショパンならではの美しいメロディーが歌いあげられます。この中間部のメロディーは20世紀に「I’m Always Chasing Rainbows」というポピュラーソングになりヒットしました。

ロシア・プロシャ・オーストリアの三国に分割されたポーランド出身のショパンは、独立のための反乱で重要な役割を果たした人々と交流関係にありました。暴動の数週間前にポーランドを離れているのはショパンの才能を国外に逃がした同志の配慮だったという説もあります。この『革命』という通称で知られるエチュードは外国で独立革命の失敗を知ったショパンがその心情を委ねた曲だという伝説があります。その史実は定かではありませんが、でも当時の人々は「自分とは何か」「国家とは何か」「自分はなぜ・何を目的に・どう生きるべきなのか」と自問を重ねながら、体制や風潮に価値観を再考することで自己を確立していったまさに「革命」の時代だったという背景を想って聴くと実に感慨深い曲です。

  • フランツ・リスト(1811-1886)
    • 『Liebesträume(愛の夢)第三番』(1850)=176年前

『ピアノの詩人』と謳われ、演奏や華やかな場を好まず39歳にして肺結核でひっそりとその生涯を閉じたショパンに対して、リストは1840年代には「リストマニア」と呼ばれる熱狂的ファンのヒステリー現象で一世を風靡したほどのヴィルチュオーソ・セレブでした。が、わずか35歳で国際的ピアニストの座を引退し「愛の夢」が作曲された1850年には、ワイマールに腰を落ち着け作曲と教授などに専念していました。歌曲とピアノ独奏の二つのバージョンがあるこの曲ですが、歌曲の歌詞は「人生は儚く死はすぐ訪れるのだから、後悔のないよう思い切り愛せよ」という内容。

天才児として出発し華やかな半生を送ったリストも1863年以降は聖職につき意外な第三の人生を送っています。その少し前に書かれた「愛の歌」—リストは何を想っていたのでしょうか。

  • モーリス・ラヴェル (1875-1937)
    • 『Jeux d’eau(水の戯れ)』(1901)=125年前

「水にくすぐられて笑う河の神様」という題辞が付くこの『水の戯れ』はドビュッシーと共に印象派作曲家とされるラヴェルの初期の代表作です。今までの作風とずいぶんと違うように聞こえるかもしれませんが、リストやショパンのパッセージに強く影響を受けています。水面にキラキラと光る反映を音にしたらこんな曲になる…と膝を打ちたくなるような曲です。

「西洋音楽の父」バッハに始まりドイツ主流となっていた西洋クラシックの伝統に抗い、自国特有の作風や、斬新な作曲技法を作曲家たちが模索し始めたのが19世紀です。ポーランドのショパンはマズルカやポロネーズと言ったポーランドの伝統舞踊などをピアノ曲にしていますよね。リストはハンガリア舞曲です。そして特にドイツに対抗意識の強かったフランスでは、バッハ以前の作曲家や作風・教会音楽・異国趣味など色々新しいインスピレーションを開拓していきました。自然をテーマにした曲が多いのもその為と言っても良いのかも知れません。

  • スコット・ジョプリン (1868-1917)
    • 『The Easy Winners(イージー・ウィナーズ)』(1901)=125年前

ジョプリンの生い立ちはアメリカ合衆国の歴史の矛盾と複雑さを反映しています。1865年のアメリカの奴隷解放宣言直後に生まれたジョプリンの父親は元奴隷農夫でした。(母親もアフリカ系アメリカ人でしたが、生まれつき自由人でした。)独立宣言が「人間みな平等」と謳った1776年、アメリカ全人口の5人に1人が奴隷だったという史実は驚愕です。独立宣言に署名をした56名の内トーマス・ジェファーソンやジョージ・ワシントンを含む奴隷保持者は推定41名というアメリカで、法的には自由市民となっても人種差別や不平等が今でも続いていることは平均収入や平均寿命などのデータでも如実に明らかです。

しかし見方を変えれば19世紀にそこまで社会浸透し、その奴隷の無料労働に頼って経済成長をしたアメリカが、それでも奴隷解放を成し遂げたことも、また事実です。若いころから才能を発揮していたジョプリンが作曲家として開花できたのは、音楽好きの両親の幼少時からの奨励と、近所に住んでいたユダヤ人教師が無料でジョプリンに民謡からクラシックやオペラまで多様な音楽伝統の教育を授けたからです。ドイツで激しいユダヤ人差別を経験して育ったこの教師は生活苦にあえぐジョプリン家の為にピアノを購入する手助けまでしたそうです。

『ラグタイムの王』という名称で今でも親しまれているジョプリンですが、彼はその評価に満足していたのでしょうか。ジョプリンは二作ものオペラを作曲しましたが、そのどちらも彼の生存中に正当な評価を受けずに、ジョプリンは48歳で共同墓地に埋葬されています。

  • ジョージ・ガーシュウィン (1898-1937)
    • 3つの前奏曲 (1926) =100年前
      • 1. Allegro ben ritmato e deciso
        2. Andante con moto e poco rubato
        3. Allegro ben ritmato e deciso

ガーシュウィンの両親はロシアの反ユダヤ人政策を逃れてNYに移住しました。後に作詞家となるアイラが第一子として1895年に、そして後の作曲家のジョージが1898年に産まれ育ったのもNYです。アメリカと言う国が殺戮的な人種差別や強制労働による経済発展を遂げたと同時に、迫害されてきた避難民たちを受け入れる「移民の国」でもあったのは皮肉と言うべきなのでしょうか、救いと言うべきなのでしょうか。そしてジョプリンがユダヤ人教師に音楽の道を授かったのに対し、ガーシュウィンはハーレムのジャズに多大な影響を受け、クラシック音楽と混ぜることによって世界的な名声をほしいままにしました。ジョプリンの失意の晩年に対しガーシュウィンの成功はやはり黒人に対する人種的偏見の繁栄と解釈することもできます。

ちなみにガーシュウィンがどれだけ成功していたかというと、ガーシュウィンがラヴェルに教えを乞うたとき、ラヴェルはガーシュウィンに年収を尋ね、「私があなたに教えを乞うべきです」と断ったそうです。

【拡散希望!】日本各地で色々やります❣


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