「想像してみて。演奏中…曲が盛り上がっていく…突然、君は手を止めて聴衆を静寂の中に置き去りにする。緊張と動揺の数秒を経てから聴衆に向かって言うんだ。『音楽がある世界を当たり前と思わないで』って。」
ある学会で出会った宇宙飛行士に「音楽による環境運動」をどう展開したらよいか相談した時のこと。目をキラキラさせ、芝居気たっぷりに自ら壇上の奏者になり切って手を宙に泳がせながら喋る宇宙飛行士は明らかに何千人という聴衆を想像しています。(いやいや…私にはそんな影響力ないし…)大笑いしたのを覚えています。
ではなぜ今その逸話が思い出されるか―建国250周年祝賀イベントでワシントンのナショナル・モールで出演予定だったミュージシャンの過半数が出演辞退を表明したことを受けてです。
表現者にとって音楽や執筆などは内から湧き起こる不可抗力です。封印は苦しい。死刑を覚悟でも「王様の耳はロバの耳」と穴に向かって叫ばずにはおられなかった床屋の昔話と同じです。でも音楽や執筆は本当に正直になる術でもあります。だからその本質を妥協する発表や演奏はしない方がまし―その決断もまたよくわかるのです。
表現の自由というのは憲法で保障されていても行使は中々難しいものです。表現を生業とする私は、それはよくわかっているつもりです。責任や義務や同調圧力や承認欲求からすべて自由に、それぞれの人が真実と熱情を追求し自己実現を全うすることを最優先にする社会。そんな理想郷が250年前7月4日にフィラデルフィアで発足された独立宣言の掲げる国民主権の理念ではないでしょうか。そのアメリカ建国250周年に表現者たちが敢えて沈黙の選択をする―それもまた歴史の1頁に残る一つの表現です。

このブログは日刊サンに隔週で連載中のコラム「ピアノの道」#180(7月5日付け)を基にしています。
