最近の私

 先日、夜遅くアパートに帰ってきてエレベーターを待ちながら、不思議な感覚を覚えた。月並みな言い方になるが、その朝早く出発したのが遠い昔の事に思え、同時に「今ここに帰ってきた私は今朝このビルを出て行った私からかなり発展しているな」と思ったのだ。なんだか傲慢な言い草に聞こえるかも知れないが、それは感覚的には、姿勢を正して謹みを覚えるような実感だった。
 そういえば、この頃毎日非常に刺激に満ちた日々を送っている。
 4月18日(月)2時にスペインの室内楽のプログラム(グラナドスのピアノ五重奏、テュリーナのピアノ・トリオ等)。 恩師サラ・ビュークナーが、私が毎シーズン1、2回載せてもらう室内楽のシリーズ、Jupiter Chamber Players で演奏した。
 8時、カーネギーホールで私の大好きなポーランド人のピアニスト、クリスチャン・ツィメルマンのリサイタル(モーツァルトのソナタ、ハ長調、ラヴェルの「優美で感傷的なワルツ」、ショパンのバラード4番、4つのマズルカ集、作品24、ソナタ2番)。カーネギーホールの有名な音響を上手く利用して、鳴らしたり、静かに震わせたり楽しませてくれた。演奏の調子は、尻上がり、と言う感じで後半が特に素晴らしかった。葬送行進曲では、ピアノ一台でどうやったら可能なのか、と言うほど行進曲がゆっくり近づいて盛り上がり、そしてゆっくり遠ざかっていく様をまざまざと音だけで見せ付けた。そしてその葬送行進が見えなくなったかなと思ったら、すぐに魔法の様なつむじ風で、4楽章を弾き飛ばした。私の表現が大げさに聞こえるかもしれないが、あそこにいた人は皆、そう感じたと思う。コンサートの後、友達と興奮して一時間半ほど喋りまくった。見事だった。
 4月17日(日) チェロのジュリアード教授、アンドレ・エメリアノフとニュージャージー州でリサイタルを弾いた。テーマは、「フランスかけるスペイン」で、ドボルジャーク(「静かな森」とスラビック舞曲から「ロンド」)、カサドの「レクイエブロス」、そして私のソロでラヴェルの鏡から「道化の朝の歌」、グラナドスのオペラ「ゴイェスカス」からの編曲で「インターメッゾ」そしてドビュッシーとフランクのチェロとピアノの為のソロを弾きました。16の時に室内楽のコーチングをしてもらってから、ずっと色々な縁で彼の生徒達のレッスンをさせてもらったり、共演させてもらったりしていたし、多分お互い興奮しやすいところとか、似た物同士という事もあるのかも知れないけど、気兼ねせずにお互いを引き出し合える感じで、本当に物凄く楽しく弾けた。お客さんも凄く乗ってくれて、ブラボーが沢山出た。幸せだった。午後のコンサートの後、彼の奥さん(フレンチ・ホルン奏者)、と奥さんのご両親に招かれて、家庭料理をご馳走になった。庭には枝垂桜、連翹、木蓮、全て満開で、演奏後のけだるいニヤニヤを意識しながら、美味しい魚とパスタの夕飯をご馳走になりながら、生きててよかったと思った。
 4月16日(土)朝あわただしく練習した後、2時にジュリアードのプレカレッジのクラリネット専攻のイザベルの卒業リサイタルを弾いた(ドビュッシーのラプソディー、ブラームスのソナタ作品120-2)。このイザベルという女の子はとても上手いのだけど、音楽的にも実際もとてもつつましくて、歯がゆくなるくらい受身で、私とは正反対のタイプの演奏家だった。それがこのリサイタルの準備中、私がブラームスのソナタを、人魚姫の物語に例えて、好きな人と一緒になる為に自分の声と引き換えに足(性器)を手に入れ近づいた王子様と結局一緒になれない人魚姫の話を私なりに曲にこじつけて話したら、いきなりこっちが目をむくほどぐんぐんとこっちを引っ張るような演奏をし始めた。びっくりした。脱皮、と言う感じだった。リサイタルの後、プレカレッジの校長に褒められた。イザベルが初めて、ギュッとハグしてくれた。とても嬉しかった。
 イザベルのリサイタル終了後、挨拶もそこそこに会場を走り去って、友達のドライブで、マンハッタン脱出。クリスチャン・ツィメルマンのマンハッタンから車で3時間ほどのところにある大学のキャンパスでのカーネギーリサイタル2日前の通しを聴きに行った。前半は、カーネギーよりこちらの方がよかった。バラードは、カーネギーでは唯一の欠点だったが、ここでは普通の演奏ではつかみ所の無いような構成が見事に描き出され、文句のつけようが無かった。完璧だった。 カーネギーでは、こういう人でもやはり緊張するんだ、という事がよく分かったし、緊張すると何がどうなるのか、という事が観察できたのも、面白かった。具体的には、一般的に緊張すると、人は全体像を見失うのだと思う。いくら、頭で把握していても、人に伝わる様にはっきりとそれを示せなくなる。しかし、逆に冷静に全体像を提示できても、感情的なものに欠けると、距離感ばかりで感情移入のしにくい演奏になってしまう。このバランスは本当に難しい。このリサイタルに連れて行ってくれたのは、私の録音エンジニアの、ジョー。 彼は、ピアノ・マニアで、本人いわく一度聴いたもの、演奏家は絶対忘れないそう。緻密なネットワークで、どこで誰が何を弾いているか、という事を常に把握し、好きなピアニストや、好きな曲の為には、何時間でもドライブして、聴きに行く。最近、私が音楽における自己の確立、という事や、キャリアにおける悩みなどを打ち明ける様になってからは、こういうドライブに私を連れて行ってくれるようになった。彼は、アドバイスを与えるより、良い演奏を聴かせようと思ってくれているんだろうと思う。普通には、買えない録音などをコピーしてプレゼントしてくれたりする。私よりずっと、ずっと年上で、15年来のピアニストの彼女に首っ丈なので、下心が云々、と言うわけでは、全く無い。 念のため。
 刺激の多い毎日です。お勉強、させていただいてます。

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