自問自答

 私は伴奏の仕事は簡単だと感じる。伴奏が簡単というより、二人以上で弾く事が簡単なのかな。 一人で音楽を全て創る、と言うのはたとえその音楽が単旋律から成っていたとしても、二人以上で弾くより難しい。これが何故かというと、舞台で独りで聴衆に向かう事や、暗譜で弾くという表面的な独奏の難しさとは別にもっと深いに有ると思う。それはきっとリズムじゃないかな。学校で生徒一人を立たせて朗読させるのと、クラス全員で同じものを一緒に朗読するのとではテンポが変わる。 メロディーをソプラノがソロで歌った後、コーラスが同じメロディーを歌ってもやっぱりリズムが違う。否、リズムは同じだが、でもリズム感が変わる。 何が変わるのか。  究極的に、音楽が目的とする所は時間と空間を共有しているという実感、つまり共感だと思う。 その目的をどう果たすか──呼吸と心拍をリズムとフレーズによって操作し、統一する事によってではないか。だから一人で、皆が呼吸と心拍を一緒に合わせる事が出来るリズムを創るより、二人、三人、四人、と集まって「いっせーのせ」で一緒に息をして一緒に創ったリズムの方が、聴衆も乗り易いのは当たり前だ。演奏家としても一人でホール一杯の人々の呼吸と心拍を操作するより、共演者と呼吸を合わせる事で聴衆も一緒に乗ってくれる方がよほど楽だ。だとしたら、独奏の意義は何か。  音楽学者、ドブルド・フランシス・トビーが「協奏曲が感動をさそうのは個人対大衆という古典的な劇的構図を描くからだ」と書いたのを読んだ。  独白劇は入り込むのが難しい。でも、よい独白劇はとても感動する。何故か。「大衆」を成す一人一人が、自分の事を「個人」だとおもっているから、そして更にいつも何処かで「独り」だと思っているからではないか、人は「独り」という不安をぬぐいたくて「共感」に安心を求める。でも「共感」は束の間で、「孤独」は持続する。だから「孤独感」を「共感」する事が一番痛切な「共感」で、そこに独奏、独白劇、そして協奏曲の意義が有るのではないか。  私はやはり独奏家でありたい。 独奏家であるよりも、ピアニストであるよりも、演奏家であるよりも先に、音楽家でありたいが、独奏が好きだ。

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ソロとアンサンブル

 ニューヨークに帰って、今日で一週間になりました。 日毎にぐんぐん秋めいています。今朝は公園で銀杏の実が地面に散らばってあの特有な匂いを放っているのを見つけました。登校する子供達ももう皆カーディガンやジャンパーを重ね着しています。日本は如何ですか?  9月20日の土曜日にジュリアードのリサイタルホールでクラリネットのS教授の伴奏をしました。この話は私が日本に帰郷中に来たもので、楽譜を日本まで郵送してもらってはあったものの、怠けて日本では殆ど譜を見る事をせず、帰りの飛行機で読もうと思っていたのに機内食を食べそこねるほど爆睡してしまい、ちょっと心配していたのですがうまくいき、大変楽しく弾けました。  偶然これもアメリカの作曲家を並べたプログラムで、バーンスタインの「クラリネットソナタ」がコープランドのピアノソナタに大変似ているのを発見したのも面白かったです。それからエリック・エウェイゼンと言う、これもジュリアード教授の作曲家の「クラリネットとピアノの為のバラード」も弾きました。これは五音階(ペンタトニック)を沢山使った一寸印象派、一寸ニューエイジと言った風の曲です。とてもきれいな曲で気持ちよく弾きました。残りのプログラムは、アレック・テンプルトンという、ベニー・グッドマンの為に働いたピアニスト/作曲家(盲人だったそうです)のちょっとふざけたジャズ風の「ポケット・サイズ・ソナタ」とバビンの「ヒランデールのワルツ変奏曲」でした。  伴奏はやはり気楽で簡単です。  伴奏が簡単というより、二人以上で弾く事が簡単なのかな。一人で音楽を全て創る、と言うのはたとえその音楽が単旋律から成っていたとしても、二人以上で弾くより難しい。これが何故かというと、舞台で独りで聴衆に向かう事や、暗譜で弾くという表面的な独奏の難しさとは別にもっと深い所に有ると思う。 それはきっとリズムじゃないかな。  学校で生徒一人を立たせて朗読させるのと、クラス全員で同じものを一緒に朗読するのとではテンポが変わる。メロディーをソプラノがソロで歌った後、コーラスが同じメロディーを歌ってもやっぱりリズムが違う。否、リズムは同じだが、でもリズム感が変わる。  何が変わるのか  究極的に、音楽が目的とする所は時間と空間を共有しているという実感、つまり共感だと思う。その目的をどう果たすか ─ 呼吸と心拍をリズムとフレーズによって操作し、統一する事によってではないか。だから一人で、皆が呼吸と心拍を一緒に合わせる事が出来るリズムを創るより、二人、三人、四人、と集まって「いっせーのせ」で一緒に息をして一緒に創ったリズムの方が、聴衆も乗り易いのは当たり前だ。演奏家としても一人でホール一杯の人々の呼吸と心拍を操作するより、共演者と呼吸を合わせる事で聴衆も一緒に乗ってくれる方がよほど楽だ。だとしたら、独奏の意義は何か。  音楽学者、ドブルド・フランシス・トビーが「協奏曲が感動をさそうのは個人対大衆という古典的な劇的構図を描くからだ」と書いたのを読んだ。  独白劇は入り込むのが難しい。でも、よい独白劇はとても感動する。何故か。「大衆」を成す一人一人が、自分の事を「個人」だとおもっているから、そして更にいつも何処かで「独り」だと思っているからではないか、人は「独り」という不安をぬぐいたくて「共感」に安心を求める。でも「共感」は束の間で、「孤独」は持続する。だから「孤独感」を「共感」する事が一番痛切な「共感」で、そこに独奏、独白劇、そして協奏曲の意義が有るのではないか。  私はやはり独奏家でありたい。 独奏家であるよりも、ピアニストであるよりも、演奏家であるよりも先に、音楽家でありたいが、独奏が好きだ。

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私が演奏会で喋る訳

 個人的な話から始めさせてもらえれば、私がピアノを弾くのは、ピアノ技巧や音楽を極める為ではない。私がピアノを弾くのは、人が好きだから、です。自分のことを他人に分かってもらいたい。私が弾く曲を書くに至らしめた作曲家の感情、状態に近づいてみたい。人の為に弾き、その人の感性に触れてみたい。時間、場所、そしてある聴覚的(そして願わくはそれ以上の)体験を共にする事によって“共感”を試みたい。そうして、お互い(貴方と私、です)の確認をし合いたい。  究極的には、だから私にとって音楽は手段で、必要と有れば手段を犠牲にしても、目的達成を試みる。例えば、西洋音楽をやっている以上、伝統継承はその意義の大きな一部だ。しかし、250年前に書かれた曲を当時演奏された通り仮に復元し得たとしても、作曲家のメッセージが、当時の聴衆に伝わったのと同じインパクトで今日の私達に伝わるだろうか。私は復元よりも、メッセージに忠実であろうと努めたい。そしてメッセージは、伝わらなければ意味が無い。メッセージをより良く伝える為に、少なくとも今の私には、喋る事が必要だ。  理由の一つとしては、演奏家と聴衆の距離を縮めたい、という事がある。イメージ的にクラシックは御堅い。構えられては、伝わるメッセージも伝わらない。固定観念も邪魔だ。リラックスして感受性を楽にするお手伝いができるならば、私の下手な日本語を(書くほうが好きです)披露する位何でも無い。又、自分を一個の人間として出す事によって、私個人、更に音楽に対して、親近感を持って頂きたい。  もう一つは、私自身、音楽を聞く、という事の難しさを痛感しているので、少しでもそのお手伝いをしたい、と思う気持ちだ。 実際、音楽に近づく過程として、弾く方が聴くより、ずっと簡単だと思う。一曲を弾く為に演奏家は何百時間を費やし、譜を読み、音を習得し、曲が書かれるにいたった背景を文献で調べ、録音を聴き、あらゆる角度から、曲を検討する。ところが聴衆は、その曲を、少なくとも私の演奏で聴くのは、この場限り!私は自分が勉強して得た発見を分かち合いたいという気持ちと、聴衆に課せられた荷の重さへの思いで、喋らずには居れなくなる。  聴く、という事の難しさについて、もう少し言えば、曲が書かれた当時の常識、作曲家と聴衆の間に当然あった常識が、現在の私達には無い事から来るギャップと言うのが、一つの要因だ。例えばバッハは大変信仰深く、その作曲は全て神への捧げものとしていた。“神を知らずにバッハの音楽は分かり得ない”、とあるクリスチャンのオルガニストが言ったそうだ。しかし逆に、無宗教の私がバッハの音楽を通じて、“神”を感覚的に知る事だって有り得ると思う。そして更に、バッハが信仰深かったという事を知識として持っていれば、この感覚は、潜在意識のレベルを超えて、認識され得る。見ている物が見えないという事、指摘されて初めて気がつく、という事は誰にでもあることだ。(例えば、チルチルとミチルの青い鳥や、鼻の上の老眼鏡など…)  又、私は、喋る事によって聴衆に生演奏ならではの、聴衆と演奏家の間のコミュニケーションに積極的に参加して頂くよう、誘いかけているつもりだ。コミュニケーションと言うのは、何も言葉のやりとりだけではない。演奏していて、聴衆から受け取る“気”というのは物凄く、それによって演奏と言うのはその都度大きく変わる。舞台に出て受ける拍手の調子、その時見る一人一人の表情、最初の一音が出るまでの静寂。。。そして、曲が始まってから演奏家が感じ取る聴衆の反応に至っては、言葉で言い表す事の難しい、テレパシー的な強力な物だ。ところが、テレビの前で完全に受身の状態で座っている事になれている今日の聴衆の中には、舞台の上の人間が生身であるという事をアピールしなければコミュニケーションが成り立たない聴衆も過去に有った。これは、私の存在感や気迫、又は演奏にも足りない物があったと思う。しかし、喋った演奏会で私がコミュニケーションの欠如を感じた事は無い。  だから、私は喋りたい。私が喋りたいのは、音楽が好きでたまらないから、そうして、その好きな音楽を共有する事で、人とつながり、人をつなげる実感が欲しいから、だ。

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これから

 「活字離れ」が話題にもならなくなった。私には「音楽離れ」もそれに比例する形で進んでいるように思われる。音楽は在ることは在る。ウォークマン、ラジオ、テレビ、いたる所で鳴るBGM・・・・音楽は有り余るほど在るが、しかし、積極的に音楽を聴く姿勢、音楽に何かを求める姿勢というのは人の中から消えつつあるのではないか?マスメディアが浸透する世の中で、人が知的な娯楽に受身な姿勢をとりたがるようになったのは、私は悲しいことだと思う。  私はそういう人達が眼を覚ます意欲を覚えるきっかけを与えるような演奏家になりたい。テレビやコンピューターの前で催眠術にかかったように、次から次へと情報を飲み込むのは実はとても退屈なんじゃないか・・・・生の演奏に触れて一人でも多くの人にそう思ってもらえれば本望だ。   人間にとって一番楽しいのは他の人間と触れ合い、自身を分かち合うことだと思う。その過程に機械をはさむと人間の人間らしさが薄れてくる気がする。だから私は演奏がしたい。録音も良いが、旅行して色々な所で、色々な聴衆の為に演奏し、自分を知ってもらい、又人を知りたい。そして特にこれからどんなテクノロジーの発展を目の当たりにするかもしれない子供達の為に弾きたい。来シーズンからアメリカの各地で子供の為の演奏会を行う。  いつか日本でも同じ事がしたい。

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ポーランドの春

 もう去年の4月になるが、ポーランドに行った。ショパンの曲想からポーランドはいつも小雪の降っている様な気のしていた私の印象は裏切られた。りんごの白い花咲く木々が点在、水の豊かな見渡す限りの田園風景。あのワルシャワの郊外は何故懐かしい気持ちがしたのだろう。  シューマンの協奏曲のゲネプロ(最終リハーサル)は、地域の小・中・高校生を招待して行われた。会場満席の子供達のそれでも遠慮したヒソヒソ声はブンブン蜂の唸り声のように演奏中も続いたが、それが無関心のせいではないことはステージを降りたとたん小学生にワッと囲まれて分かった。多分クラスでは道化役の10歳位の男の子がプログラムとペンの捧げもって皆に笑われながら近づいてくる。その子のプログラムにサインした後はもうどの手がどの子につながっているのか分からないような混雑の中で日本語で名前を書きまくった。私は自分の名前は好きだが、こういう時は「字画が多いなあ」とちょっと思う。  やっと最後の子供のサインをして、中庭に出て一息ついて朝食の残りのパンにかぶりついたら今度は高校生の男の子が数人歩いてきた。(恥ずかしい)(言葉が通じない)(何を言えば良いか分からない)等小学生の時は思いもしなかったことを次々思いながら、しかし逃げるわけにも行かない。突っ立っていたらば一人がかがんでたんぽぽの花を摘み、私に渡してそのまま皆で歩み去った。やっぱりショパンの国だ。

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