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ポーランドの春

 もう去年の4月になるが、ポーランドに行った。ショパンの曲想からポーランドはいつも小雪の降っている様な気のしていた私の印象は裏切られた。りんごの白い花咲く木々が点在、水の豊かな見渡す限りの田園風景。あのワルシャワの郊外は何故懐かしい気持ちがしたのだろう。  シューマンの協奏曲のゲネプロ(最終リハーサル)は、地域の小・中・高校生を招待して行われた。会場満席の子供達のそれでも遠慮したヒソヒソ声はブンブン蜂の唸り声のように演奏中も続いたが、それが無関心のせいではないことはステージを降りたとたん小学生にワッと囲まれて分かった。多分クラスでは道化役の10歳位の男の子がプログラムとペンの捧げもって皆に笑われながら近づいてくる。その子のプログラムにサインした後はもうどの手がどの子につながっているのか分からないような混雑の中で日本語で名前を書きまくった。私は自分の名前は好きだが、こういう時は「字画が多いなあ」とちょっと思う。  やっと最後の子供のサインをして、中庭に出て一息ついて朝食の残りのパンにかぶりついたら今度は高校生の男の子が数人歩いてきた。(恥ずかしい)(言葉が通じない)(何を言えば良いか分からない)等小学生の時は思いもしなかったことを次々思いながら、しかし逃げるわけにも行かない。突っ立っていたらば一人がかがんでたんぽぽの花を摘み、私に渡してそのまま皆で歩み去った。やっぱりショパンの国だ。

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豪華客船での旅

 現在世界一速い客船「オリンピア・エクスプロアー」でゲストアーティストとしての2週間半、計7回の演奏会を終えて今、ニューヨークに帰宅途中の飛行機内だ。フランスのニースで乗船し、スペインとポルトガルで停泊後、大西洋を横断して南米アマゾン川下りとカリブ海諸島巡りをした。終点のフロリダ州ではこの新しい船のお披露目会が旅行会社やマスコミを招待して行われ、そこで最後の演奏をして私の契約は終わった。面白い仕事があるものだ。  船には賭博場もジムもカラオケもディスコもある。船招待の学者や歴史家が毎日各々講義を行い、夜はダンスや手品の大掛かりなショーがある。それでもやはり船旅というのは時間を持て余すものらしい。800人の乗客の限られた社会の中で人々は無上に愛想よく、一期一会の気楽さも有って突飛な打ち明け話を交わす。 一方その陰で、360人の船員は週休なしで毎日10-14時間、低賃金で豪華演出に走り回る。その大半は発展途上国の若者だ。家族に送金する者も、貯金して祖国で店を始める夢を持つ者も、皿を運び、客室を掃除し、階段を磨いて年をとる。世界を凝縮したような船上で17日間100を下らぬ人生を垣間見て、人間模様に食傷気味だ。  船を後にして、もう口をききたくなかった。航空手続きを全て首振りで済まして通過した。それでも子供はやはり可愛い。離陸直後から前席の隙間から金髪巻き毛の女の子がしきりに私の眼を覗く。 やっぱり笑ってしまう。もうすぐニューヨークだ。

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ニューヨークのクリスマス

 年末年始のニューヨークは絢爛豪華だ。木や茂みには色とりどりの豆電球が点り、満艦飾のツリーが立ち、街角でサンタがベルを鳴らし、いつもどこかでキャロルが鳴っている。飢えや環境破壊が蝕む世界で富を誇示するかのようなニューヨークのクリスマスは傲慢かもしれない。装飾の動機を消費活性対策と見れば浅はかにも見える。しかし北海道と同じ緯度に位置するニューヨークの長くて暗い冬がそれで救われるのも事実だ。鼻息も白くなる寒さの中で夢の様にきれいな豆電球は北風でにじむ涙の中で本当に暖かく見える。  一年前、世界貿易センター崩壊直後、それでも例年どおり灯りは点った。被害者追悼の花束、ろうそくは街中で見られ、追悼の集会も数多く続いたが、同時に普通の生活を取り戻す努力に全力を尽くすことによって、生存者の平常心とニューヨークの健在のイメージを保とうとしていた。自粛で悲劇への共感を示そうとする日本に対し、この国はとても行動的だ。貿易センターの跡地は週7日、1日24時間の作業の結果、1年で片付けられた。周囲のオフィスビルでは仕事が再開され、新ビルの再建計画が進む。そして又1年、灯りが点る。同時に受けた傷を癒す努力も続けられる。クリスマスのチャリティーイベントがいたる所で開かれる。12月17日には私も友達と連れ立ってチャリティーコンサートを開く。収益は全て被害者の子供達の為の夏のキャンプに寄付される。最後にはサンタも出てくる予定だ。

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アラバマ州の学校で

アメリカ南部に初めて行った。ニューオリンズ州のジャズ、ケンタッキー州のフライドチキン、「風と共に去りぬ」の南部だ。ヨーロッパの文化と歴史に引け目を感じる北部に対し、独自の訛り、風習、古き良きアメリカ的人情を誇りとする彼等。けれども、もう一方では南北戦争敗北後、文化面、経済面での発展途上地域とみなされているような所もある。  そんな南部の公立学校で、音楽の授業の為の資金を捻出できる地域は少ない。だからアラバマ州での独奏会当日の朝、学校でちょっと演奏してくれ、と頼まれた時、引き受けることにした。学校にはピアノも無い。近辺の楽器屋から白塗りのヤマハが運ばれる。私は本当は怖かった。ハスに構えてピアニストなんて馬鹿にするかもしれない。いじめられたらどうしよう。幼稚園から高ニまで付近の合計1000人がスクールバスで一校の講堂に集まった。 ステージに上る。挨拶をする。挨拶が満場一致で返って来る。先ずホッとする。ほぼ全員にとって生まれて初めての演奏会━━選曲も責任重大だ。鳥の鳴き声がそのまま折り込まれている「悲しい小鳥」(ラヴェル)で始める。真夏の炎天下、森で迷子になった小鳥、という作曲家の注釈の話をしてから弾く。その後の40分はただ一生懸命、モーツァルト、バッハ、ショパンと喋りをはさみながら弾き進んだ。質問が無いか、きいてみる。予想通りの気まずいクスクス笑いの後、後ろで一本手が挙がった。体の大きな男の子が肌黒い顔を真面目にしかめて立ち上がる。  「小鳥はお家に着けたのですか?」。可愛い、と思った。前列のもっと年少の子達が、質問に大きくうなづいている。それは曲を聴いた一人一人がそれぞれ解釈する事だと説明しながら1000人皆に握手して回りたいと思った。 ピアノを弾いてて良かった。

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アルテンベルグ

ドイツの赤ちゃんはおとなしい。公共の場で泣くことがめったに無い。これは躾が厳しいというより、おしゃぶりの使用法に何か秘密があるような気がするが、実際はどうなのだろう。  そんなドイツで初めて弾いた独奏会はバッハがオルガンを弾きに来た事も有るという石造りの大変立派な城の一室だった。私は大変気負っていた。滞独して3週間、初めて人種問題に直面していたのだ。「東西国際音楽祭」は、共産主義圏と民主主義圏の若者達に音楽を共演させることで世界平和を願うという名目だったが、皮肉な事に会場となった街の若者の一部の間でネオ・ナチズムが浸透していた。統一後まだ7年経っていなかったドイツの小さなその街の経済状態は不安定で失業率は高かった。外国人に街を開いて、低賃金で働く移民が増えると現地の彼等の仕事は更に減る、と彼等は心配していた。  その夏、私達外国人音楽家が槍玉に上がってしまった。黒人のチューバ奏者がバスの中で殴られた。アルバニア人の少し肌黒いヴァイオリン奏者が蹴飛ばされた。私も街中で「ハイル・ヒットラー」とやられ、面食らった。そんな中での独奏会だった。国籍や肌の色が違っても同じ人間、いじめられれば悲しいし、意思の疎通は大変嬉しい。共感しよう、音楽を通じてそう言いたかった。  一曲目を弾きに会場に入ってハッとした。客席一列目のド真中に金髪の6-7才の男の子と女の子がめいっぱい着飾って雛人形のようにしゃっちこばって座っている。足が床に届いていないのに、宙ぶらりんのその足を二人ともひざとかかとできっちり合わせて緊張している。とたんに気持ちが和んで肩の力が抜けた。2時間の演奏中、二人とも全く物音を立てなかった。あの二人のおかげで素直に弾けた。  コンサートの後、もらった花束の中から一輪ずつ二人にあげた。女の子が「ダンケ(ありがとう)」とはにかんで笑った。嬉しかった。

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