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ボリビア

初演奏旅行は18の時。 ボリビアが国名であることさえ知らなかった私は、それでも南米はアンデス山脈標高4071メートルの首都ラパスに気が付けばちゃんと立っていた。  ボリビアのバスの先頭の窓には大抵小さな男の子がぶら下がってバスの行先を叫んでいる。文盲率が20パーセントもある国では表示だけではダメなのだ。子供の物乞いも多い。まだ小学生以下の彼等は、車の排気口からガスを吸い込みハイになろうとする。そんな国の音楽家達の向上心には何か私を反省させるものがあった。何しろ国立オーケストラの奏者の多くは独学なのだ。オケの給料では生活できず、昼間は教師や警官や兵隊の彼等が夜のリハーサルには下稽古を済ませてきて本当に楽しそうに真摯に奏でる。    私は少し複雑だった。たまたま私に白羽の矢が当たった招待の名目がボリビア国際文化祭開催やアメリカとの交換留学生制度を祝する大それたものだった為、私は政府要人のパーティーに次々と招待されご馳走が続いた。そしてこうした要人はボリビア人口75パーセント以上が原住民の中、皆スペイン植民地時代の統制者の子孫で白人だった。    私は自分もアジア人であるのに、西洋音楽を弾き、ボリビア上流階級者達にお世話になり、上流志向がそのままヨーロッパ志向になったような世界の恩恵をこうむっている、、、それでも言葉の通じないボリビアの音楽家達と音楽を通じてつながれるのは、理屈抜きに楽しかったし、テレビや新聞でチヤホヤ取り上げられるのは気持ちよかった。    そんなある夜コンサートの後、会場とホテルが近かったので私はラメ入りの赤いロングドレスのまま外に出た。もう11時近かった。聴衆狙いの屋台の最後の一つが店じまいをしていた。店番は8歳くらいの女の子一人だった。その子が急に私に気付き、私を指差して大きな声で何かを叫んだ。周りの皆が一斉に笑った。通訳が「あの子はお姫様!と叫んだのだ。」と教えてくれた。私はちょっと泣きたくなった。

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18歳の平田真希子の独立宣言

 どっから始めて良いか分からないから、春菊の話から始めます。小学校の低学年の頃、まだ、香港から帰ってきて間も無くだったと思います。  その日の夕飯は水炊きで、私はそのとき生まれて初めて春菊と言う物を目にしたのです。母親は久しぶりに春菊が食べられると子供の様に喜んでいました。そしてしきりに私に春菊と言う物がいかにおいしい物か私に話して聞かせて、最後に私のおわんにその緑色の雑草をゆでた様な形の野菜を入れてくれました。  私はその緑色の物をはしで持ち上げてみました。葉っぱ一枚をつかもうとすると全部が絡み合って持ち上がってきました。水がしたったてる春菊は結構重くって、はしでほぐすのは不可能に見えたから、私はかみ切る事でそのシュンギクなる物に挑もうと思いました。いざ、かみつくとシュンギクはごわごわして固くて、引っ張ってもかみついても中々切れてくれませんでした。私はしょうがないから一大決心をしてその固まりを一遍に口に押し込んでしまいました。  温かい水が、味ぽんと入り混じって私の口を一杯にし、それからのどへ流れ込んできました。それを、何とか全部飲み干すと口の中にはいがいがごわごわした恐怖のシュンギクが残りました。私はかみ始めました。苦いような妙に生温かい未知の味が私の口に広がりました。その瞬間母親が 「ね、おいしいでしょ」 と得意げに言ったので、私は、そうかぁ、この未知なる味はおいしい物なんだぁと子供心に妙に納得してしまい、(フ-ン、おいしいなぁ、この味はおいしいなぁ)と自分に暗示をかけながら、五分間クチャクチャ噛んでもかみ切れなかった長い糸のもつれあいの様に口の中に残った物を「グッ」と飲み込んで、それがのどにつっかかりつっかかりしながらノロノロと食道を下っていくのをかんじながら 「お母さん、春菊っておいしいね」 と言いました。母が、子供なのに味が分かるのね、と嬉しそうに言ったので、私は得意でした。 それ以来、私は水炊きの度に春菊を入れてくれ、と頼みました。好物は?ときかれると 「シュンギク!」 と叫んで妙に一人で得意がっていました。そして自分でも本当に春菊が好きなんだと信じ込んでいました。  今でも私は春菊を食べます。でもこの「春菊初体験」を思い出す度に分からなくなるのです。私は本当に春菊が好きなのか。好きだと信じているだけなのか。それともあるいは、好きだと信じながら食べてるうちに本当に好きになっちゃったのか。 一つの事を疑い出すと、他の事もどんどん疑ってみたくなります。 Q1 私は本当に春菊が好きなのか。 春菊は本当においしいのか。 「おいしい」って何なのか 私は「おいしい」を好きじゃなきゃいけないのか 「好き」って何なのか 何かを「好き」になるって事が本当にありえるのか。 それとも何かを好きだと「信じる」事が存在するだけか。 Q2 私は本当に春菊が「好き」なのか 私は本当に食べる事が「好き」なのか 私は本当に両親が「好き」なのか 私は本当に人間が「好き」なのか 私は本当に「人生」が「好き」なのか 私は本当に「生きてる」のが「好き」なのか  常識と言う物があります。 常識があるから社会が存在します。 常識があるから今この世を機能することを可能にしている物(法律、宗教、教育、など)が存在する事を可能にしています。  常識は親子代々受け継がれ、常識が歴史や文化の継続をある意味で可能にしました。常識というのは多分今の世の中では文字通り無くては成らない物なんでしょう。  でも、常識って人間をがんじがらめにして本当の真実から目隠ししている様に思えてしょうがありません。常識は人間の可能性を狭めているんじゃないでしょうか。教えられた事全てを肯定して受け入れて、信じようと努力して、期待されてる通りの人間になろうとして生きて来た。だから私は人形になってしまった。私はとんでもない役者になってしまっていた。いつの間にか常識が私を消し、私は常識を演じる役者になっていた。私はもうだから常識以外何も感じられない。自分の気持ちが感じられない。「嬉しい」と口に出して言うとき、私は自分が本当に嬉しいのか、それとも嬉しがる事を期待されてるから嬉しがってるのか、それとも状況に条件反射で嬉しいと信じてしまうのか分からない。  私は何も分からない。何も信じられない。答えを得ようと知識を漁れば漁るほどかえって常識を増やして大事な物、本当の物を失っていく様な気がしてどんどんがんじがらめになっていく気がして怖い。  本当に自由になるためには、本当の真実を悟るためには、本当の自分を取り戻すためには、常識を一つ一つ解いていかなきゃいけないと思った。常識を、考え付く限りの常識を全部ひっくり返して疑ってみて解けたら初めて真実が見えると思った。真実が何かも分からなかったけど、自分を偽って生きていくのは正しい事じゃ無いと思ったから一生懸命全てを否定し始めた。  でも常識から自分を解いてしまうと言う事は社会から自分を追放してまったくの一人ぼっちになると言う事です。常に自分と向き合ってしかも自分が常識に戻されてしまわない様常に気を張り、強く生きなければいけません。それはとても恐ろしい事です。それまで信じていた物を全て否定するとき、自分がどんどん無くなっていくような恐怖にとらわれます。本当はそれまで「演じ」ていた自分を捨てる、と言う事は本当の自分を見極めるためには必要なプロセスなんだけど、「演じ」ている自分を捨てた後、何も残らないかもしれない、と言う恐怖はいつでもあるし、そうでなくても今まで本当だ、真実だと信じていた事を疑うとき、本物の本物まで信じられなくなってしまうんじゃないか、と思ったりします。多分常識から自分を解放していく、と言う作業は死ぬのと同じ位、孤独で恐ろしい事でしょう。それで、もしかして常識を全部解くって言う事はもしかしたら本当に死ぬのと同じ事かも知れません。  でもとにかく今、私は教え込まれた感性(常識!?)から自分を解いて自分の感情を本当に自分の物にしない限り私は永久に自分になれない気がするし、自分で自分の「幸せ」の定義、何かを「好き」と言う事の定義、「生きている」と言う事の定義を決められなければ、生きてる理由が無いと思うから、やっぱり常識から一度完全に自由にならなきゃいけないと思う。その結果仮に本当に死んでしまったら、それは生きてる意味が無かったと言う事だから、それはそれで良い気がする。  私はまだ若い。この手紙、二日もかけて考え、考え書いて、とうとう誕生日が来てもう18になってしまったが、それでもやっぱりまだ若い。まだ理想が高いし、理想が高いから、こんなに考えるし、考えればどこかに行きつくんではないかと希望を持っている所もまだ若い。いわゆる「大人」が、この手紙を読んだら笑うでしょう。実際、この手紙を色んな人に読ませて色んな人に笑われたし、それで私はちょっと傷ついた。でも皆、怖いから笑うんだと思う。人間は常識に安定を求めている。常識を壊すと言うのは安定した状態を離れると言う事で、それは私も怖くて、ちょっと馬鹿らしくて、本当は頭の隅で自分の事をヘラヘラと「何やってんの」と笑ってる部分もある。でも私は妥協しない。もしそれが、「大人じゃない」とか「まだ青い」と言う事だったとしたら私は一生大人になれなくても青いままでも良い。  私は人間に未練がある。一人になる事はとても恐ろしい。この手紙を読んだことであなたが私から逃げたら、それは凄く辛い。でも分かってもらえなかったらそれはそれでしょうがない。私はやっぱり「本当の自分」になりたいし、もしつきつめて行って本当の答えが「もう本当の自分は当の昔に完全に押しつぶされていた」と言う事なら生きている意味は無いからさっぱりこの世から姿を消す。  私は18になった。小学生のとき、私は自分が小学校を卒業するまでに病気か事故か自殺か、兎に角何かで死ぬと思っていた。その事ばかり考えていた。中学の時は日本から離れる事ばかり考えていた。アメリカに来てからこっちは今書いた事のようなことばかり考えている。もしかしてこれは現実逃避かもしれない。死んでしまう様な気がしていたのも、日本から離れたかったのも、今、常識をはじめとするすべてを疑っているのも私は、自分の知らないところで成長している自分、自分とは別の所で私に関係なく忙しく動いている社会、何兆何億と言う人間、地球、を直視するのが怖いからかもしれない。怖いから、自分よりも社会よりも地球よりももっと大きな所から世界を見る事に逃げているのかもしれない。許してください。それでも良いと思ってください。肯定する事から世界や自分を見つめることがひとつのやり方なら、否定する事から全てを見つめる私のやり方もまた、ひとつの生き方でしょう。  しつこいようだが、私は18になった。誕生日が来る度に私はこんなに長く生きながら得た自分に驚く。それと同時にいかに自分が若いかを数字にまざまざと見せ付けられて、それも信じ難い。何にせよ、私は18になった。18になった記念にこれを書いた。  私は、色々あったけど、その全てが今日の私を造りあげたんだから、私の今までの一秒一秒全てに取りあえず感謝しておこうと思う。 18歳の誕生日を記念して記録

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